神の存在を信じる3つの根拠
「宗教無き科学は欠陥であり、科学無き宗教は盲目である」アインシュタイン
「はじめに神が天と地とを創造した」(創世記1章1節) さて神は本当におられるのでしょうか。そしてその神はどのようなお方なのでしょうか。 実は聖書では神の存在を証明していません。神がおられることがあたりまえのこととして書いてあるのです。 そしてイエス・キリストはこう言われました。 「わたしを見たものは神を見たのである」 なんと大胆な発言でしょう。もしこの言葉が真実だと認めることができれば、神についての議論はもうここで終わってしまい、あとはイエスキリストをよく理解すればよいことになります。
しかし、「ちょっと待ってくれ、早すぎる」という方もおられるでしょう。 したがって、イエス・キリストについては後でまた詳しく論じますので、神の存在について考えてみましょう。
まず第一に、この宇宙、自然界を見れば神の存在がわかるのでないでしょうか。 宇宙の天体、自然界の物質、植物、動物すべてに合理性、秩序があります。それぞれがある目的のために驚くほど実に精巧に造られています。 宇宙の形を決めるいくつかの定数があり、そのひとつでも僅かでも異なっていれば、今の宇宙とは違う宇宙になり、生命に不可欠の元素も生成されなかったのです。これは現在の科学者が認めるもので、「人間原理」と呼ばれています。 このように精巧な宇宙が偶然に生まれたとは考えられず、知的創造者の存在を考えるほうが理にかなっています。 しかし生物については進化論によって神(聖書)は否定された、と考える人もいます。進化論について述べるととても長くなるので、後で別に扱いますが、ここで簡単に2つの点だけ述べておくと、 1.
偶然と自然淘汰だけで、生命の起源、生物の複雑さや精巧さを完全に説明できない 小進化と呼ばれる同じ種内の変化は認められます。しかし、こんなにも複雑で精密な私たちの体が偶然と自然淘汰だけで単細胞からここまで進化したとはとても考えにくいことです。 また無生物からどのようにして生物が発生したのかという「生命の起源」の問題についてはまだ何も分かっていません。 2.進化=神はいない、とはいえない。 進化論を認めながら神を信じる人もいます。 無神論者が問題にするのは、創世記の天地創造の記述が進化論と矛盾しているように見えるという点です。 しかし聖書は科学の教科書ではありません。何千年に渡ってどの時代の人にも真理を伝えるべき書物に、現代の科学的表現を要求すべきではありません。
第二に、道徳、良心の存在が神を示していないでしょうか。 私たち人間が生まれながらに持っている絶対的な道徳、愛、良心、また罪の意識は、社会が決める前から、国や民族を超えて、存在しています。 生存競争に勝ち抜くために身に着けた本能ではありません。本能であるなら自分を犠牲にしても人を助けねばならないという良心の声はどこから来るのでしょうか。(Vol.1「キリスト教エッセンス」参照)
第三に、宇宙の中でちっぽけな存在の人間に、宇宙の謎を解く理性が与えられていること。 人間の思考の産物である数学がこの宇宙の法則を解き明かすのですから、人間の理性は宇宙を創造した理性と繋がっているのではないでしょうか。 神が創造された人間だからこそ、この宇宙を理解できるのです。
以上のこと考えたときに、神が存在すると仮定すれば、十分に納得がいく説明ができると思いませんか。 実はこの方法はとても合理的な方法です。 事実や現象を最もよく説明できる考えを認めるのは理性的選択です。 前回お話したヒッグス粒子も、その存在を仮定することが最も合理的だったので、それを実験で証明しようとしているのです。