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目に見えない神を信じる


「神の粒子 ヒッグス粒子発見!」

     科学者は見えないものを信じて真理に挑む

我々に感覚、理性、知性を備え給うた神が、それらを使わぬように我々を命じるとは思えない。(ガリレオ・ガリレイ)


 まだ誰も見たことの無い、そして一瞬しか存在しない素粒子を見つけるため、莫大な費用を掛けて研究する科学者は、その理論の正しさを確信するからこそ、その研究にすべてを賭けるのでしょう。

 私たちのまわりには目に見えないものはたくさんあります。空気も目に見えないけれどその存在は疑いません。

 科学者というのも、目に見えないものを論理的に証明していくことを常としています。重力も、電波も、陽子も中性子も、素粒子も、その存在を確信するのは、それが合理的だからです。

 我々も同じように、目に見えない神を、確信することができます。神が存在することが十分納得できるからです。(そのためには科学的方法だけでなく、歴史的方法も必要ですが。)

 信仰は決して、理性に反して信じることでもなく、理性とは別次元のものとして単なる心の問題として考えるものではありません。

 理性を超える要素を持っていますが、理性に反するものではないのです。

 嘘でも幸せならいい?

「鰯の頭も信心から」

 何でもいいから信じる心が大切だ、それでその人が幸せだと感じればいい、という考えがあります。

 ある人々は、聖書の記述が歴史的に真実かどうかなどよりも、その人の信仰が実際に役に立つかどうか、すなわちその人を幸福にするか、社会を良くするのに役立つかどうかだと主張します。 そして、人が幸福になるならばどんな宗教でも構わない、という「寛容」な結論に陥ります。

 しかしこのような信仰が真に力を持つでしょうか。神話や作り話が人を変えるでしょうか。神がいるかいないか分からずに祈る祈りはなんとむなしいことでしょうか。

 そのような人はパウロの言うように「最も惨めな者」(1コリント15:19)になってしまうでしょう。


100%の答えはどこにもない

 しかし、100%の証拠がある訳ではなく、誰も反論できないほどの論理があるわけではありません。そもそもこの世界に100%の答えなどありません。どのくらい確かなのかという判断をするしかないのです。

 科学的事実も常に新しい発見により変わってきました。わからないことをわからないと認めることも科学的態度です。

 かつては光が粒子であり、かつ波であるという事実に対して、その理由がわかりませんでした。今は新たな理論の発見により解決しています。

 今はわからないこと、矛盾していると思われることも正直に認めつつ、それでも今分かっていることを根拠にして人はいつも決断し、行動していくものです。聖書にも分からないことはたくさんあります。神がいるなら何故、という疑問も残ります。しかしそれでも神を信じることができる十分な根拠が、今私たちに示されています。

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