信じる根拠は必要か
信仰に合理的根拠は必要か
確かな判断力と知識をもつように/わたしを教えてください。わたしはあなたの戒めを信じています。(詩篇
119:66)
よく「信仰」というものは誤解されて、ありえないことを目をつむって信じるかのごとく思われている。しかし、神が理性あるものとして人間を創られた以上、その理性に反して「信じろ」とは言わない。現に聖書は理性を最大限に用いることを勧めている。
私たちが人を「信頼」するとき、それはそれなりにその人の人格、性質を知った上で、信じるに値するから信じるのであって、誰でも闇雲に信用しない。
それと同じように私たちは、聖書が示す神、キリストをそれなりの根拠を持って信じるのである。
聖書の示す信仰を「愛」とか「心の癒し」とかオブラートに包んでも、根拠に確信を持てないならば、いずれは「神は本当にいるのか」「キリストは本当に復活したのか」など、苦しみや困難に遭遇したときに信仰を失ってしまうかもしれない。まさに岩地に落ちた種のように。
また無神論の知識人の影響を受けて、信仰とは非科学的で愚かだと、私たちの信仰を「無知」のごとく嘲笑する人々が多い。その反面、高学歴の若者がいともたやすく、それこそ荒唐無稽な新興宗教に騙されてしまう。この両者に対して、キリストを信じる信仰とは何なのか、納得のいく説明を持つべきだろう。
ある人は宗教的な体験から神を確信するかもしれない。しかしそれは個人的な体験であって、すべての人に当てはまるものではない。誰でも知ることができる確かな根拠を示すことは個人的体験を超えて伝わるのである。「個人的体験の背後になる真実こそが他者にとって意味を持つ」。(「歴史の証言」)
もし「イエスとの出会い」や「聖霊の満たし」というような体験を強調し、理性を軽視するなら、近年のスピリチャルブームやパワースポット探しと何が違うのか。
(参考:「理性からの逃走」)
ここで「キリスト教」という言葉をあえて避けていることに注意してほしい。ここで弁明したいのは「キリスト教」ではなく、聖書が示す神とイエス・キリストを信じる根拠であって、「キリスト教」を信じる根拠ではない。なぜなら「キリスト教」という言葉には聖書に根ざす本来の「キリスト信仰」とは無関係な多くのものがまとわり付いているからである。
嘘でも幸せならいい?
「鰯の頭も信心から」
何でもいいから信じる心が大切だ、それでその人が幸せだと感じればいい、という考えがある。
ある人々は、聖書の記述が歴史的に真実かどうかなどよりも、その人の信仰が実際に役に立つかどうか、すなわちその人を幸福にするか、社会を良くするのに役立つかどうかだと主張する。そのような信仰を「実存的信仰」と呼ぶ。聖書の歴史的正確性や奇跡の真実性などに確信を持てなくなった一部のキリスト教会は、そのような信仰理解に逃避している。
そして、人が幸福になるならばどんな宗教でも構わない、という「寛容」な結論に陥る。
しかしこのような信仰が真に力を持つだろうか。神話や作り話が人を変えるだろうか。神がいるかいないか分からずに祈る祈りはなんとむなしいことか。
そのようなクリスチャンはパウロの言うように「最も惨めな者」(1コリント15:19)になってしまうだろう。
聖書は理性を働かせることを勧める
「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」(ルカ1:1-4)
ルカは福音書を書くにあたって、これが確かな事実であること理解してくれることを読者に期待している。
パウロは「よく考えずに信じたのでないなら」(1コリント15:3新改訳)(他の訳はちょっと違うので微妙)と言っている。
「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)
この力は知性とも訳されている。全力を尽くすというとき、「知・情・意」のすべてを使うのである。
「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。 」(1ペテロ3:15)
他者に対してもきちんと説明できる信仰でなければならない。そして神もその知恵を与えてくださる。
どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。(ルカ 21:15)
弟子たちも、奇跡や感情に訴えるのでなく、イエスが救い主であることを論理的に語った。
しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。(使徒 9:22)
彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。 (使徒 18:28)
理性で人は信仰を持つか
もちろん理性的に十分は説明ができても、皆が信仰を持つわけではない。人は信じたいものしか信じないからだ。神を信じたくない人はどんな根拠を示しても信じない。信仰は頭で理解して得られるものではなく、神の恵みによる聖霊の働きと、その人の心の決心によるものである。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 (マタイ 11:25)
世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。(1コリント 1:21)
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。 (1コリント 2:5)
私たちの知識は不完全であり、また知識は神に対して人を傲慢にさせる。救いは知識によるのではない。
しかし、信じるに値する根拠が十分あり、決して理性に反するものではないことを知るとき、人が神に近づく障害がひとつ取り除かれ、救いに一歩近づくことができる。
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。(コロサイ 2:3)
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