第9章 理屈よりも実践、体験だ! −敬虔主義とリバイバル運動ー

1.啓蒙主義

 17世紀から18世紀にかけてキリスト教会は啓蒙主義理神論の影響を受けて変質していきました。教義や聖書よりも理性が優先し、理性で了解される限りにおいてキリスト教を受け入れるという状態になります。超自然的啓示は拒否され、神学は哲学になり、聖書の批判的研究がなされて聖書の権威が軽んじられ、キリスト教のメッセージは単なる道徳になってしまいました。このような教会に新たな命を吹き込んだのは敬虔主義とリバイバルでした。

2.敬虔主義

 敬虔主義(ピエティスム:Pietism)とは、17世紀のドイツのルター派におこった教会内改革運動です。
 1670年、ルター派教会牧師シュペーナーが,フランクフルトで個人的集会を開いたのが起源です。この集会が「敬虔なる者の集い」と呼ばれたため,彼ら対するあだ名としてピエティスト:Pietist(敬虔主義者)と呼ばれました。

 シュペーナーは、教会の教理や教義よりも、聖書を中心とした,信者個人の回心と信仰、心の敬虔さを重んじ、実践的で禁欲的な信仰生活を強調しました。それは、宗教改革の情熱を失い活力を失ったルター派教会の回復を求めた運動でした。そういう意味ではその源流は、再洗礼派やピューリタンなどにあったと考えることもできますが、シュペーナー自身はオランダの改革派から影響を受けました。敬虔主義は、改革派の論理性よりも、ルター派の内面性がマッチしたためにドイツで発展したと考えられます。


ヘルマン・フランケ

 ヘルマン・フランケはシュペーナーにより回心し、教育に情熱を注ぎ、貧民学校など多数の学校を開きました。また彼は宣教団体を作りインドへ宣教師を派遣しました。プロテスタントで始めての海外(外国)宣教師でした。プロテスタントでは当時海外宣教に目を向けるものは少なかったのです。敬虔主義は内心からの献身的行動を生みだし、愛の業や宣教活動を活発に行いました。

 フランケの学校で教育を受けたツィンツェンドルフは、迫害を受けてモラヴィアから逃れて来たフス派のボヘミヤ(またはモラビア)兄弟団を受け入れ、ヘルンフート兄弟団と名付け、霊的指導者となりました。彼らも伝道活動、海外(外国)宣教に熱心でした。

 このモラビア派の影響により、イングランドのジョン・ウエスレーメソジスト派をおこし、イギリスにリバイバル運動(信仰復興運動)を起こしました。これらの運動が19世紀のアメリカのリバイバル運動へとつながっていきます。またこのリバイバル運動によって多くの宣教師が開国したばかりの日本へやってきました。


3.英国のリバイバル運動

ジョン・ウェスレーの回心

 18世紀、イングランドのキリスト教界は死んだように沈滞し、道徳に毛の生えたような説教のみで霊的な命は無く、その道徳さえ、一歩教会から出れば完全に踏みにじられていました。それは国教会ばかりか、自由を勝ち取ったはずの非国教会でさえ同じ状況でした。まさに「天の国の鍵」はどこかに消えうせていました


ジョン・ウエスレー

 英国国教会の牧師だったジョン・ウェスレー(1703-1791)と弟のチャールズ(1707-1788)は、オックスフォードで「ホーリー・クラブ」という祈りと聖書研究の会を始めました。また、「聖書にある通りの規則(メソッド)どおりの生活しようとする者たち」という意味で、「メソディスト」というあだ名を付けられました。後にジョージ・ホイットフィールド(1714-1770)も加わります。彼らは囚人や貧者の訪問、困窮者への援助などの活動を始めました。彼らは狂信者として迫害と中傷を受けました。

 その献身的姿勢を買われ、ジョンとチャールズは1736年3月、アメリカ、ジョージア州へインディアンへの宣教師として派遣されましたが、うまくいかず落胆して1738年帰国しました。人の心を扱うことに不器用であったことと、福音の理解が不十分であったためと言われています。しかし、その2年間で彼自身の信仰が変わりました。

 彼は渡米中の船で敬虔主義のモラビア派の信者と出会い、彼らの信仰に感銘し、彼らとの交わりを続けました。帰国後も彼らの集会に出席、1738年5月、ジョンとチャールズは相次いで新たな宗教的経験をし、回心しました。彼らはこう言っています。

 


チャールズ・ウエスレー

「私はインディアンを回心させるためにアメリカに行ったが、一体だれが、何が、私を回心させてくれるのか!」
「他人を回心させるためアメリカに渡った私自身が、実は神へ回心していなかったということなのだ!」

 彼らは熱心でしたが、個人的な罪の許しの確信、魂の平安を持っていなかったのです。
彼らは、神を恐れていただけで罪に苦しんでいましたが、神の愛と罪の赦しを信じ、喜びに満たされるようになりました。ジョンの言葉を引用すれば、「神を喜び、楽しむ」人間に変えられました。

メソジスト・リバイバル

 その後敬虔主義のツィンツェンドルフを訪問し、指導を受け、帰国すると彼らは聖書のいう「聖潔(ホーリネス)」をイギリス全土に広める運動を始めました。彼らは英国国教会の中で活動するつもりでしたが、国教会側からは危険視されました。恵みによる救い、信仰による義認を説教すると、その教会では2度と説教することができなくなってしまいました。そこでホイットフィールドに倣い、1739年4月に初めてブリストル郊外で野外説教会を開き、多くの回心者を獲得しました。それ以来彼らは野外でも室内でも、人が集まるところどこででも説教しました「世界はわが教区」とはジョンの残した有名なことばです。これが大衆伝道の先駆けでした。顕著な聖霊の働きが現れ、いやしも行われ、多くの人々が雷に打たれたように地面に倒れ、「神の言葉によって心引き裂かれた人々の叫びで鳴り響いた。」と記されています。

 ホイットフィールドも非常に熱烈な伝道者でした。彼は国教会の牧師としてその有能さが認められていましたが、キリストの贖いと聖霊による新生を説き始めると教会側は非難しました。そこで彼は日曜に教会に来ることの無い人々に伝えるべきだと、野外で説教することにしました。1739年の2月、ブリストル近郊のキングズウッドの百名ほどの炭鉱夫を相手に説教を始めました。彼の評判はたちまち広まり、数万人に膨れ上がりました。数百人の炭鉱夫がその黒く汚れた頬を涙で濡らしてその場で悔い改めたのです。その後ロンドンでも野外集会を開き、全国を巡り、1週間に20回説教したと言われ、一生涯説教を続け、死の直前まで説教をしていたそうです。


ジョージ・ホイットフィールド

野外集会

 

 ホイットフィールドは、1739年から1741年までの間何度も彼はアメリカを訪問し、リバイバルが起こり数千人の聴衆が涙を流して悔い改めたといいます。彼は一冊も著書を残しませんでしたが、ウェスレーと共に当時のアメリカ、イングランドに多大な影響を与えた人物です。

 しかし説教と共にウェスレーが優れていたのは、組織を動かすその管理能力でした。多くの回心者を信仰的に維持するため、これをグループにし、それらのグループを全国的に組織しましたが、多数のグループにおいて聖晩餐を執行する牧師は足りないため、信徒をリーダーとして訓練して、説教者、牧師としました。このため、結果的に国教会から分離しなければなりませんでした。彼はメソジスト教会を組織しただけでなく、多くの慈善活動を行い、また貧しい子供たちのための教育の場として多くの教会学校を作りました。その後もメソディスト教会は社会運動に大きく貢献していきます。

 ウェスレーの神学の特徴は万人救済(=予定の教理の否定)と、聖潔(聖化)、キリスト者の完全の主張、聖書の重視でした。特に「キリスト者の完全」の主張が長い間物議を醸しました。しかし、彼は当時の英国全土をひっくりかえすほどの霊的な大改革を成し遂げた人物であり、その多くの著作は今も出版されて、重要な霊的遺産を残したことは事実です。

彼は「天の国の鍵」を再発見したのです。

 救いの喜びを歌にしたチャールズはイギリスで最も有名な讃美歌作者となり、彼の作った讃美歌がこのリバイバル運動の中で大いに用いられました。


 アメリカでは1767年、フィラデルフィアでメソディスト教会が始まり、現在アメリカで2番目に大きな教派に成長しています。

4.アメリカのリバイバル運動

グレートアウェイキング

 同じ頃、ピューリタン上陸から100年を経て、アメリカの教会も形式化し、霊的な命を失いはじめていました。
 1726年、敬虔主義の影響を受けた牧師スィアドー・フリーリングハイズン(オランダ改革派)によって、グレートアウェイキング(Great Awakening 大覚醒運動)が始まり、1750年頃まで続きました。(ちなみにアメリカではリバイバルよりも、アウェイキングという言葉が多く使われるようです。)霊的覚醒と高い生活基準を訴え、回心者が多く起こされました。敬虔主義運動とメソジスト運動の巡回伝道者の影響が大覚醒に繋がったと考えられます。その感化はペンシルバニアとニュージャージーの長老派に及び、長老派のテナント兄弟によってスコットランド系アイルランド人の間にリバイバルを起こしました。

ジョナサン・エドワード


ジョナサン・エドワード

 さらにリバイバルの波はニューイングランドの会衆派やバプテストに広がっていきました。
1734年から1740年まで、会衆派の牧師ジョナサン・エドワードによって新しい霊的な命がマサチューセッツの教会に吹き込まれました。
彼の真摯な霊的態度と祈りの生活が大きな感化を与えました。神の国に入るには個人的な回心が必要であることを訴え、絶望に陥っていた教会の霊的風潮は一変しました。
この結果、宣教への情熱が呼び起こされ、日曜以外にもリバイバル集会が行われ、インディアンへの宣教も活発に行われました。

 1750年、エドワードはノーサンプトン教会から解雇されました。彼は当時の会衆派の「Half-Way Covenant」に反対していました。教会への加入には個人的回心体験が必要であると主張したのです。こうしてリバイバル支持のグループは、"New Light"として、反対派は、"Old Light"として会衆派は分裂していきました。

 東海岸のリバイバルはイングランドの伝道者ジョージ・ホイットフィールド(メソディスト運動の巡回伝道者)によって、さらに刺激を受けました。1739年から1741まで彼は数回に渡ってアメリカを訪問しましたが、彼が到着すると人々は店を閉め、仕事を投げ出して集会に駆けつけたそうです。数万人の人々が集まり涙を流して悔い改めたと言われています。

2ndグレートアウェイキング

 1786年南部長老派でリバイバルが起こりました。アメリカ聖書教会や超教派の宣教団体アメリカン・ボードなどが設立され、活発な宣教が行われました。この頃長老派もリバイバル賛成派と反対派に分離しました。

 この1stグレートアウェイキングでメソディスト教会バプテスト教会が特に大きく成長しましたが、彼らはもともと奴隷制に反対であり、黒人たちが大勢加わりました。当時の黒人教会の大多数はメソディストとバプテストでした。


ムーディー

この後、19世紀には、チャールズ・フィニー、ムーディーなどにより、2ndグレートアウェイキングが起こります。彼らは、ジョナサン・エドワードらのカルビニズムとやや異なり、地獄の火と天罰に説いて、徹底した罪の悔い改めと罪深い行動から遠ざかることを要求しました。彼らの活動は超教派であり、あらゆる教派から人が集まってきました。教会の第一の使命は伝道=リバイバル集会を開くこととされました。

「天の国の鍵」を教会から路上に持ち出して、あらゆる人々に与えたと言えるでしょう。

 このようなリバイバルの熱情を持って、明治初期の日本に、アメリカン・ボードや長老派、メソディスト、バプテストなどから数多くの宣教師がやって来て、日本のプロテスタント宣教が始まったのです。

5.20世紀のリバイバル

 20世紀には、チャールズ・フィニーの「新生に続く聖霊のバプテスマ」の教えを受け継ぐホーリネス運動から、ペンテコステ運動、カリスマ運動へと教派、国境を越えて、繋がっていきました。このあたりは別の機会に詳しく書くことにしたいと思います。

 このような信仰復興運動は2つの流れに分かれていきます。一方は宣教、伝道熱心で、やや熱狂的な傾向も持ち、他方は宣教、伝道よりも社会改革に熱心で、教会合同(エキュメニカル運動)にも積極的です。大雑把に分ければ、前者はWEA(世界福音連盟)に属し、後者はWCC(世界教会会議)に属しています。


6.ヨーロッパのリバイバル

イギリス

メソジストリバイバルの後、沈滞化してしましたが、19世紀後半には、スポルジョンムーディーによるリバイバルが、20世紀初頭には、エバン・ロバーツによるリバイバルが起こり、これは世界中に波及しました。

19世紀には超教派の伝道団体が生まれ、積極的に海外に宣教師を送り出しました。ロンドン伝道協会は、中国、ハワ イ、南太平洋などへ初のプロテスタント宣教師を派遣しました。アフリカへは探検家としても有名なリビングストン を、中国へは、後に初めて聖書を日本語に訳したギュッツラフを派遣しています。

スコットランド

1843年トーマス・チャルマーズの指導するスコットランド自由教会が近代主義に陥って無気力になったスコットランド教会から分かれました。

ドイツ

南ドイツの神学者が覚醒運動に繋りを持ち、伝道と奉仕の務めが強調され宗教改革以来の活気を取り戻しました。
しかし、ルター派と改革派の合同をきっかけに、多くの急進派は19世紀にアメリカへ渡りました。

スイス

国教会から分離する動きが出て来て、各地に自由教会が設立されました。

オランダ

国家の教会支配と、国家教会の自由主義に反発する人々が分離しました。

スカンディナヴィア

デンマーク、ノルウェーではハンス・ニールセン・ハウゲが平信徒の巡回伝道者として迫害されながら影響を及ぼしました。ここでも自由教会が設立されました。



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