1.誰でも「天の国の鍵」を授かることができる! ―信仰の自由を実現―
当時の欧州では国家と教会が一体化した「国教会」制度であり、建国初期においては、ピューリタン達も「国教会」という意識でした。彼らは「国教会」という制度に反対していたのではなく、「国教会」を改革しよう、もしくは別の「国教会」を作ろうとしていたのです。彼らにとっては「非国教会」派は社会の秩序を乱すと考えて、迫害したのです。初期の入植者が、教会と世俗社会を一体として考えるカルヴァン主義の流れにある教派であったことも影響しているようです。
「自分たちだって大陸では迫害されてきたんじゃないか。」と国教会制度を批判したピューリタンのひとり、ロジャー・ウイリアムスは、追放されてロードアイランド植民地を建設しました。ここでは宗教の自由が保障され、ここで現代アメリカ最大の教派であるバプテスト教会が初めてアメリカで誕生しました。
そしてついに、啓蒙思想の影響と、欧州での経験から、独立宣言では平等と自由が謳われ、合衆国憲法修正第一条で、国教会が禁止されたのです。
われらは、つぎの真理が自明であると信ずる。すなわち、すべての人間は平等につくられ、造物主によって一定のゆずりわたすことのできない権利をあたえられていること、これらの権利のうちには生命・自由、および幸福の追求が含まれていること。(1776年7月4日「独立宣言」抜粋)連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。(合衆国憲法修正第一条)
こうして多様性を持った教派が数多く生まれるようになります。このように教会と国家とが分離された教会を「自由教会」と言います。後に欧州でも徐々に「自由教会」が認められ、今日ではあたりまえとなっていますが、「自由教会」はアメリカで発展したと言えるでしょう。時折教会の名前に「自由」ということばが入っているのを見かけますが、これはそのような歴史的背景を表現しており、今の私たち日本人が連想する「自由」とはちょっと違うようです。
こうしてそれぞれの教会がペテロのようにイエス・キリストから「鍵」を授けられて、かつ独自性を持って活動し始めました。
しかし、多様な民族と人種のるつぼであるこの国では、それをどうやってまとめて行くのか、アメリカ市民としてのアイデンティティが必要です。その役割を「ある宗教的なもの」が果たしていると言えます。大統領就任式では、大統領が聖書に手を置いて宣誓し、演説では聖書のことばが引用されます。プロテスタント信仰が基礎であることは事実ですが、これは、人口の80%以上を占める「旧約聖書を正典とする宗教(カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、ギリシア正教、モルモン教等)」に属する国民を意識したものです。(「神」とは言っても「キリスト」という言葉は出てきません。)
このアメリカを統合するための「宗教」を、「アメリカの市民宗教」(Civil Religion in America)と呼んでいる社会学者もいます。キリスト教とは似て非なるものであることは注意が必要です。
(参考:森孝一[http://theology.doshisha.ac.jp/users/staff/kmori/])
2.非主流教派の拡大
クェ―カー派
イングランドで靴屋だったジョージ・フォックスが、1649年から巡回伝道者となり、その単純な聖書からの説教が多くの人々を集めました。これが、フレンド派(キリスト友会)の始まりでした。
クェ―カーという呼び名は、彼らが祈るときに体を揺することから、外部の人達が付けた名です。
ドグマ(教条主義)に対する反発から、クエーカーは聖書を唯一の拠り所とし、それ以外は一切認めないため、組織的な教会や団体を持ちません。職業的牧師もいません。聖書でさえも、神から啓示を受けた人々の証言としてのみ捉えてキリストとの個人的な直接の交りを体験することを重要視します。彼らの教えは危険視され、ピューリタン革命の指導者であるクロムウエルからも迫害され、多くの人が投獄されました。
マサチューセッツに渡ってきたクェ―カーも、ピューリタンから迫害され、鞭打ちや絞首刑になった者もいました。彼らは教会の権威に服従しなかったからです。当時死刑となったクエーカーの女性、メアリー・ダイヤーの銅像がいまでもボストンのマサチューセッツ州議会前庭に建っています。彼女はクェーカーの教えを宣教したために投獄され、ロードアイランドへ追放されましたが、その命令に背き、再三逮捕され棄教を迫られましたが、「神の教えに従い、死を選ぶ」と拒否し、1660年絞首刑になりました。しかし彼女の純粋な信仰は多くの影響を与え、結果的に、この地では死刑が廃止されたそうです。
軍人であったウイリアム・ペンは、クェ―カーとなり迫害されましたが、父親の功績によって、ペンシルバニアに土地を与えられ、1682年フィラデルフィア(兄弟愛の意味)を建設しました。ここで彼は宗教的寛容政策を実行し、クェーカーだけでなくメノナイト、アーミッシュ、ドイツからの移民など多くの人々を受け入れました。"○○○おばさんのクッキー"で有名なペンシルバニア・ダッチカントリーは、今もこの時代の伝統が生きている場所です。(ダッチはオランダのことではなく、中央ヨーロッパを差すらしい。)
クェーカーは大きな勢力ではありませんが、早くから奴隷制度に反対したり、絶対的平和主義による兵役拒拒否や平和運動、男女同権主義など、特出すべき特徴を持っています。
新渡戸稲造は、留学中にクェーカーに出会い、感銘を受け信仰を持ちました。そして「武士道」を書いたのです。
現天皇皇后両陛下の英語教師がクエーカーだったそうです。
再洗礼派の流れで、個人の主体的信仰を重視し、穏健、平和主義のメノナイト派や、そこから派生したアーミッシュ、フッタイトなどもアメリカに移住してきました。彼らは少数派ではありますが、特徴的です。
メノナイトは、1683年に初めてペンシルバニアに移住しましたが、19世紀にロシア、スイスから大勢移住したようです。ロシアが約束していた「兵役免除」の特典を撤回したため、1874年、アメリカの中西部とカナダに移住し、北米メノナイト・ブレザレン教団、カナダ・メノナイト・ブレザレン教団となりました。彼らは兵役拒否のために迫害を受けたこともありましたが、クエーカーらと共に良心的兵役拒否の権利を勝ち取り、第二次世界大戦では、軍隊に入る代わりに公共奉仕作業に従事し、平和運動に大きく貢献しています。
アーミッシュは、1727年からペンシルバニアに移住し始め、有名なダッチカントリーなどに独特の共同体を形成しています。中西部を中心に約20ヶ所の共同体があり、全米で約10万人と言われています。
聖書を教えを文字通りに厳格に守るため、イエス時代の共同体を模範としています。したがって教会堂も聖職者も無く、生活は農業中心のシンプルな生活スタイルで、共同体を危うくする恐れのある文明を拒否します。自動車は持たず馬車に乗り、質素で独特な服装をし、電話も村に共同のものが1個だけ、もちろんテレビ、ラジオもありません。(ましてインターネットなんてとんでもない!)
日常生活や礼拝ではドイツ語方言(ペンシルベニア・ダッチ語)を使います。子どもは13歳までは独自の学校で教育を受けます。その後洗礼前に外の世界を体験させた上で、自由意思で信仰を選択させますが、75%は共同体に戻ってきます。
このように伝統を忠実に守っている人々を特に「オールド・オーダー・アーミッシュ」と呼びます。それとは別にアメリカの生活様式に近づいていった人々を「ニュー・オーダー・アーミッシュ」または、「アーミッシュ・メノナイト」と呼びます。
このような彼らが迫害を受けなかったのは、彼らが自分たちの教え、生活スタイルを外の人々に広めたりしようとしなかったからでしょう。むしろ古き良き時代を思わせる生活スタイルが一種の憧れにもなっているのかもしれません。
バプテストの起源
ピューリタンによる国教会批判が高まる中、分離派の一団がジョン・スミス(John Smyth,1565-1612)に率いられて宗教的に自由なオランダに渡りました。スミスとその会衆は、オランダで、アナバプテスト(再洗礼派)のダッチ・メノナイトと交流を持ちました。アナバプテストは、以前述べたように、幼児洗礼を否定し、信仰告白に基づいた成人洗礼を入会の条件とするグループでした。スミスは、メノナイトとの交流の中で成人信仰者への洗礼のみが、新約聖書により教えられた信仰者の基本だとの確信を持つようになったのです。
1609年、成人洗礼を受けたスミスとその仲間たちは、イギリス人による最初のバプテスト教会を形成しました。スミスの会衆の内、イングランドに帰国した人々が、1612年、イギリス国内初のバプテスト教会を作りました。初期におけるバプテストの主張は、政治のコントロールの及ばない独立した教会政治の獲得と、幼児洗礼の完全な否定の二点でした。17世紀初期の段階では、いずれも、非常に過激な主張であり、バプテストは社会を乱す輩としてイングランドで弾圧され、またアメリカでも同様でした。
バプテストの2つの流れ
バプテストの中でも、キリストの贖いに関する考え方の違いにより、2つの流れがあります。
スミスに率いられたグループは、キリストはすべての人のために死んだので、罪の赦しはあらゆる人々に効力を持つと考えます。彼等は「ジェネラル・バプテスト」(General Baptists)と呼ばれています。
それに対して、1633年イングランド会衆教会の分派としてヘンリー・ジェヤコプによって生まれたグループは、カルヴァン主義の立場で、「限定贖罪」、すなわちキリストの死はあらかじめ救われるように選ばれた人々のためであるとの見解を持つという考え方を持ち、「パティキュラー・バプテスト」(Particular Baptists)と呼びます。
初期には、どちらの主義を選択するかは自由でした。18世紀後半までは「パティキュラー・バプテスト」が主流でしたが、近代では「ジェネラル・バプテスト」の自由意志に動機付けられた伝道が拡大しています。
迫害からアメリカ最大教派に
1639年、ロジャー・ウィリアムズの助けでロード・アイランドに最初のバプテスト教会が誕生しましたが、ロード・アイランドのバプテストは、「ジェネラル」の傾向を持っていました。
ペンシルヴァニアには、主にウェールズから「パティキュラー・バプテスト」が移住しました。最初のバプテスト教会連合は1707年、「パティキュラー・バプテスト」により形作られたフィラデルフィア連合(Philadelphia Association)です。
ロード・アイランド以外のニューイングランドでは、バプテストは迫害されました。教会の完全な独立と幼児洗礼の否定は、教会契約を社会契約にまで押し進めた「ニューイングランド・ウェイ」を脅かす主張と理解されたのがその主な原因です。
19世紀中ごろにアメリカでバプテストの信仰を持ったスウェーデン人の船員によってスウェーデンにバプテスト教会が出来ました。しかし迫害が激しくなりアメリカに渡り、スウェーデン系バプテストを形成しました。
やがてバプテストはアメリカ全土に広がり、政教分離、信仰の自由、個人の尊重といった信仰も広く受け入れられるようになりました。1740年には3000人程度でしたが、今日では2500万人を超えるアメリカ随一の教派となっています。中でも南部バプテスト協議会は1500万人の会員数で、大きな影響力を持ち、世界185カ国に5000人を超える宣教師を派遣、活発に伝道を進めています。
バプテストは黒人解放運動にも積極的で、18世紀の大覚醒運動でも多くの黒人信徒を集め、公民権運動の原動力にもなりました。近年は信仰的にも政治的にも保守的な傾向を強めてきています。
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