第4章「天の国の民」の責任 −カルヴァン主義―

4.1 改革派の誕生

ドイツでの宗教改革はスイスにも飛び火しました。かねてから聖書主義者であったツウィングリは、高まる市民運動への対応をチューリッヒ市議会に迫り、1523年、合法的に改革を断行させました。

(この当時は国家と教会は結びついていました。カトリックでは「教会の中に国家がある」という考えであり、ルター派では、ローマ教皇庁からは独立しましたが、各領域の領邦君主が宗教を決定し、教会をも統括していました。スイスでは都市連合国家であったため、各都市の市議会が統括しました。)

ツウィングリは、聖書に基づかないすべての儀式や、習慣を徹底的に排除しました。教会内の装飾物はステンドグラス以外すべて撤去されました。オルガンも無くなり讃美歌も歌わなくなったそうです。ルター派が内面的なことを重視して礼拝儀式などにはあまり手を付けなかったのに比べて、徹底的な「改革」を行ったため、後に自らを「改革派」と名乗るようになったわけです。ルターはたくさんの讃美歌を作り、会衆讃美を豊かなものにしたのに比べて、改革派では、聖書のみことばをそのまま歌う「ジュネーブ詩篇歌」のような歌が作られたのも、このような背景があるのです。
ルターはこのような急進的改革には反対でした。

1531年、ツウィングリが戦死した後、スイスの改革は中断しましたが、その後「改革派」を形成したのがカルヴァンでした。
カルヴァンはフランス生まれでしたが、フランス国内でプロテスタント(ユグノー)が迫害されたため、スイスのバーゼルに亡命しました。彼はもう一度フランスに戻った後、1536年再びバーゼルに行く途中で、戦争の危機をさけるためにジュネーブに立ち寄りました。彼はあの有名な「キリスト教綱要」を出版したばかりなので、有名人でした。そこでジュネーブの改革派の指導者であったファレルがカルヴァンにジュネーブに留まってここの教会を指導して欲しいと頼んだのです。彼は、研究生活がしたかったし、たまたまここに立ち寄っただけなので、その気はさらさらありませんでしたが、ファレルが「そうなければ神様があなたを罰しますよ。」とまで言ったのです。カルヴァンはこのファレルの言葉の中に神の声を聞いたのです。彼は自分の将来の計画を捨てました。
歴史的な「カルヴァン派」の誕生が、「たまたま」立ち寄ったジュネーブで始まるとは、まさに神の御手によるものですね。

左から、ルター、ツウィングリ、カルヴァン

4.2 プロテスタント教会の基礎

「信仰のみ」「聖書のみ」という原則はルター派と同じですが、カルヴァンは更にそれを徹底していきます。
しかし聖書からの説教中心の礼拝は、ツウィングリやファレルと同様ですが、カルヴァンは、歌の無かった礼拝に詩篇歌を導入しました。聖書のことばをそのまま歌うことは、旧約時代からの受け継ぐべきものと考えたからです。さらに聖餐の意義も重視しました。行きすぎた改革を是正したのです。

またカルヴァンは教会の自立を主張して国家と分離しました。ルター派のドイツ、北欧諸国(ノルウェー、デンマークなど)が国教会主義であったのと対象的でした。自立した教会は、牧師とその教会の信徒の中から選ばれた長老によって治められることになりました。これが「長老制」と呼ばれ、「長老教会」という呼び名の由来でもあります。牧師はカトリックで言う司祭にあたる職務ですが、その上に立つ司教(司祭を任命する)にあたる階級は長老制にはありません。牧師会という民主的な組織があっただけです。牧師と長老は同じ立場で信徒の教育にあたります。
このようにしてプロテスタント教会の基礎が築かれていきました。

(ルター派は本来監督制ですが、19世紀以降、長老制を採用する教会が出てきました。ルター派はあまり形式にはこだわらないようです。)

4.3 神への責任

カルヴァンと言えば「予定論」が有名ですが、予定論が明確な教理として議論されていくのはカルヴァンの後継者たちの時代であって、カルヴァン自体はそれをことさら主張していたわけではありません。彼は「神の主権」を強調し、人間がいかに努力しても、その功績で神の国に入れるのではなく、ただ神の恵みによるのだ、ということです。そこから必然的に神の国に入れる人と、入れない人が、あらかじめ予定されているという「予定論」が発展するわけです。

しかし、カルヴァンの関心はそのような理屈ではなく、神の国に入れられた者が、神の前にどのように責任を果たして行くかにありました。神の一方的な恵みによって選ばれたものが、それにどう答えていくか。そのため、教会規則を徹底し、生活全般における清い生活を要求しました。そして信仰教育を重視しました。そのためにあらゆる娯楽が禁止されました。規律に違反する者に対しては非常に厳しい刑罰を加えました。しかし罰を与えることがカルヴァンの意図ではありませんでした。当時の状況では、これくらいしなければ改革は成功しなかったと言われています。

1538年に彼はジュネーブを追放されるのですが、それは彼の厳しさに対する市民の反発だとも言われていますが、実際は、教会に対する市当局の干渉に反対したためのようです。結局ジュネーブを救えるのはカルヴァンしかいないということで1541年に呼び戻され、1564年に死去するまでジュネーブの教会を指導し続けました。

このような中で、世俗的ことがらもすべて神に認められた行為として、職業が尊ばれ、勤勉さが美徳とされ、その結果としての財産の形成が容認され、資本主義の発展につながっていきました。

カルヴァン派はフランス・オランダ・イギリスへ広がり、改革派、長老派、会衆派、などに分かれています。
イングランドのカルヴァン派の「ピューリタン」はアメリカ大陸へわたったことで有名です。
イングランドの国教会は政治的理由で宗教改革が行われたため、さらに改革を推し進める運動としてピューリタン運動が起こりました。
この中でも、長老派、会衆派、バプテスト派と分かれていきました。


教会のしくみもいろいろ

長老派は長老制をとる教会で、各教会の信徒から選ばれた長老が教会を治め、権威を持ちます。
各個教会は自律的ではありますが、各個教会の長老会議である小会の上に、地方教会(同じ地域にある教会)の長老会議である中会、さらに、その地方教会を越えた、より広い範囲にある教会の長老会議である大会、総会があって、共同監督権を持っています。
現在改革派と長老派を名乗る教会は長老制です。

それに対して会衆派は、信徒、牧師のいずれにも権威を設けません。会員全員が出席する総会での合意で運営されます。
また各個教会は完全独立であり、教会間を統括する組織はありません。
ここから、また幼児洗礼を否定するバプテスト派が生まれてきました。
組合派の教会、バプテスト派の教会、単立教会などは会衆制です。

ちなみに監督制というのは、牧師や司祭、司教などの教職者が権威を持ち、また教職者の間でも階級があります。
監督制を採用している教会はローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、英国国教会(聖公会)、ルター派のある教派、メソジスト系のある教派など。最後の2者は、監督の使徒権の継承を主張しません。

 

 


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