★何故、eChurchで、教会の歴史や教派について取り上げるのか。

それは、誰でも歴史や文化の影響を免れて、独自に信仰を作り上げた人などいないからです。(少なくともキリスト教であれば。)
特定の教派、教団とは関係を持たないこのサイトでも、それを作成している私自身は、ある教派で信仰を持ち、その教派の歴史的な
背景やその指導者の影響を受けていることは否めません。
ある人々は「私たちは聖書のみに従っているのだ。」と主張します。しかし福音主義の神学者バーナード・ラムはこのような福音派が陥りやすい伝統無視の態度、すなわち無歴史的姿勢(「自分たちは歴史とは無関係にただ聖書だけを手にして、今ここにあるかのように考える」態度)を批判しています。
また、1977年に開かれた福音派の指導者たちの研究会議の宣言「シカゴ・コール」では、
「我々は聖書と聖霊さえあれば、過去とは無関係であると性急に思い込むことによって、キリスト教的遺産の豊かさをしばしば見失ってきた。」ことを告白しています。

私たちに伝えられた信仰が、どのような歴史、文化の背景の元に、どのような先輩方によって、どのような聖書解釈がなされてきた結果なのか、またどのような異教、異端や間違った教えとの戦いを経て来たのかを理解することは大切です。それを通して、私たちの信仰が純化され、本当に守るべきものとそうでないもの(すなわち特定の国、文化、時代、歴史的背景に依存するもの)とを区別し、各教派の違いを受け入れつつ、核となる信仰において一致して協力できるようになるのではないかと考えます。それは安易なエキュメニカル(教会合同)運動とは異なります。安易な妥協による教会一致運動は支持しませんが、(特に日本における)キリスト教の分派、分裂状態が多くの日本人のつまずきとなっていることを憂いている人は多いのではないでしょうか。
そのために、まずキリスト教の歴史から学びたいと考えています。

★教会は完全ではない。

新約聖書のパウロの手紙を読むと初期の教会からすでに多くの問題をかかえていたことがわかります。また聖書の最後の書簡である「ヨハネによる黙示録」の最初の3章では、当時の7つの教会に対して、イエス・キリストの評価がなされており、「始めの愛から離れてしまった」教会、「死んでいる」教会、「なまぬるい」教会などへの厳しい批判がなされ、悔い改めが迫られています。
この黙示録は、西暦90年代に書かれたと言われています。ローマ帝国によるキリスト教への激しい迫害が起きていた時期です。そしてイエスの直弟子はこの黙示録を書いたヨハネを除いて皆死に絶えて、教会はすでに2代目へ引き継がれていた時代です。そのときに神はこの黙示を与えて、イエス・キリストが教会の主であり、やがてきたるべき全世界の王であることを思い起こさせ、悔い改めを迫り、そして勇気と希望をあたえたのだと思います。
教会は人間の集まりです。したがって完全ではありません。実際、過去もそして現在も誤りを侵しているのは事実です。そして神はいつの時代にも、そのような教会に悔い改めを迫っておられ、教会は常に神に従っているかどうかを問われているのです。神から離れた教会はやがて衰退し、そこからまた神に忠実であろうとする人が立ち上がり、その教会の内側から改革が行われるか、もしくは新しい教会を作っていきました。
黙示録3:20では、イエスが外に締め出され、戸をたたいて悔い改めを呼びかけているというたとえがあります。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 黙示録3:20

これは、しばしば伝道に用いられ、ノンクリスチャンに対して、イエスを信じる(こころの戸を開けて迎え入れる)ことを呼びかける姿として適用されますが、直接的にはこれは教会に対して言われていることです。イエスを外に追い出しているのは教会(クリスチャン)なのです!
私たちクリスチャンこそが次の3:19のみことばをしっかりと心に留めなければなりません。

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。 黙示録3:19