右近、マニラに死す




スペインの洞窟で発見されたモザイク画

中央が高山右近。彼の評判はいち早く西洋に伝わった。

 

◆大歓迎のマニラ市民
家康に追放された右近一行は、慶長19年(1614年)マニラに到着した。フィリピン側記録では12月21日陰暦で11月21日、43日後に船はマニラに到着した。ルソン総督を始め全マニラは偉大な信仰の勇者を歓迎。船が入港したとき岸は市民が埋め尽くし、礼砲を撃ち、国賓並みの歓迎であった。総督はスペイン国王の名において手厚くもてなすと宣言。しかし右近は、主のために命を捧げようとしたが、それもお許しにならなかったほどの拙い自分は、そのような名誉に値しない、と辞退した。
イエズス会学院向かう途中、沿道はキリストの勇士を見ようという市民で埋まり、全市の鐘が鳴り、聖堂の前で聖職者が歓迎。パイプオルガンなどの楽器の奏でられる中聖堂へ入り祈りをささげた。
総督はそれ相応の生活を保証すると申し出たが、日本に家臣を残してきた自分は質素な生活でよい、と武士道を貫いた。
◆右近の死
右近は金沢からの苦難の道中と過酷な船旅で疲れ果て、不慣れな南国の気候風土、食物で健康を弱めた。
熱病にかかり、1615年2月3日、慶長20年正月6日静かに息をひき取った。63歳。
 (右近の帰天日については諸説があったが、今では2月3日が定説である。参考:高山右近の帰天日について
マニラ市をあげての盛大な葬儀が行われた。足にくちずけしようと市民がつめかけ、競って遺骸を運ぶので分担を決めねばならかった。遺骸はサンタ・アンナ聖堂に納められ、9日間追悼のミサが続いた。
家族は国会から年俸を受け日本人町で平穏に暮らした。
共に追放された内藤如安は、1626年死去。妹ジュリアは修道女会を組織。一生を神に捧げた。
高槻市とマニラ市は高山右近が縁となって姉妹都市になっている。マニラの日比友好公園には、高槻市と同じ右近像が立っている。
◆右近の遺言
右近の最後の指導司祭はペデュロ・モレホン神父であった。
モレホン神父は日本管区の副代表としてローマに行くため右近と一緒にマニラに渡り、右近の臨終に立ち会った。
モレホン神父の記した「日本殉教録」の中には、右近のマニラでの様子が詳細に書き留められている。
 「立派なキリシタンになるよう努力し、教会やイエズス会のパーデレに従順であること、もしこれに背く者あれば勘当し、孫とも親族とも思わぬ。」
 「なぜ泣くのか。私が死んだらおまえたちは困るとでも考えているのか。おまえたちは間違っている。神はおまえたちを保護することを考え給うし、神がおまえたちの父である。」
 「パーデレ、私はもう死ぬと思いますが、神がそれを希望し給うのですから、私は喜び慰められています。今より幸せなときが今まであったでしょうか。私は妻や娘、孫について何も心配していません。彼らと私はキリストのために追放されてここに来ましたが、彼らが私についてこの土地まで来てくれた愛情に深く感謝しています。神のためにこのような境遇になったのですから、神は彼らにとって真実の父となり給うでしょう。だから私がいなくなってもよいのです。」

おわり。



当時のマニラの教会と同じデザインの高槻カトリック教会。
右近当時の教会跡は追放以後、現在まで神社になっているが、その近くにこの教会は建っている。

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