利休と右近

 千利休の住んでいた堺は、当時商業の町として栄え、国際的、自由都市でした。従って南蛮文化に触れる機会の多いところで、伴天連も保護され宣教師の拠点であり、利休の後妻や娘の一人もキリシタンでした。
弟子の中にもキリシタンが多く、右近はその中でも特に卓越していたようです。

 利休自身がキリシタンであったかどうかはわかりませんが、利休の茶にはカトリックの影響が多く見られると言われています。
 茶の湯の袱紗さばきは、教会のミサにおける聖餐式で神父がぶどう酒の器を拭く動作と非常に似ています。回し飲みも聖餐式に似ています。茶室の入り口を低くしたのは、すべての人が平等で、へりくだってそこに入るように、ということのようです。

 利休は秀吉から信頼されていたので、何かと非難を受けるキリシタンとしての右近を、秀吉にとりなしをしていたようです。ついに秀吉が伴天連追放令を出したとき、秀吉は利休を使者として遣わし、棄教を迫ろうとしました。秀吉の条件は「領地はなくしても熊本に転封となっている佐々成政に仕えることを許す、それでなお右近が棄教を拒否するならば他の宣教師ともども中国へ放逐する」ということでした。
 しかし右近はこの譲歩案も、師である利休の説得も謝絶し、「キリシタン信仰(宗門)が、師(茶道の師利休)、君(秀吉)の命(棄教令)よりも重いかどうかは今は分からないが、いったん志したことを簡単には変えず、志操堅固であることが武士の心意気ではないか」といいました。

後に利休は秀吉に切腹させられるのですが、その理由は彼がキリシタンであったから、という説もあります。

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