茶道と右近

 高山右近は、茶人としても有名でした。千利休七哲の一人、利休極上一の弟子とまで言われたようです。
 茶人としての右近は、天正5年(1577)「津田宗及茶湯日記」に始めて名が出ています。また天正12年の秀吉の茶会にも名を連ねています。
 天正15年12/27「利休居士百会記」に高山南坊(みなみのぼう)という名が出ています。南坊とは右近の茶人としての名で、「南蛮の坊主」を意味しているとも言われています。注目すべきは、このときすでに追放されて小豆島に隠れてい
たはずだということです。当時の利休の権勢を物語るものでしょう。
 後に金沢藩に迎えられてからも、教会のみならず茶道への右近の影響は大きかったようです。
 利休の弟子にはキリシタン大名が多くいました。戦国時代、武士たちは数寄の道に精神的礼式と自己修練の場を見出したのだと言います。
 ロドリゲスは「日本教会史」で右近をこう語ります。
 「彼は数寄は、徳操、叡智を養うのに大いなる助けになるというのを常とし」「デウスに祈るために静かな茶室に逃れた。」
 右近の茶は修練であり黙想であり茶室は祈とう所であったのです。
茶道とカトリックの関係は明確ではありませんが、少なからず影響があったと考えられています。上智大名誉教授のミルワード神父は 「初めてお茶会に参加した時に、これはカトリックのミサに似ていると思った」と言います。手の動き、茶わんの飲み口をふく茶巾(ちゃきん)など、ミサとの類似点があると言います。利休の住んでいた堺は、当時キリシタンの中心地でしたし、弟子にキリシタンが多いこともそれを裏付けるものでしょう。
 しかし「茶道と十字架」の著者、増淵宗一氏は類似点を指摘しながらも、「確たる証拠が乏しい」とも書いています。

 利休は1582年頃から、二畳敷の狭い茶室に、頭を下げて入る躙り口(にじりぐち)など、新たな工夫を取り入れましたがこれは長年の禅の修行から導き出されたという説と「『清貧』を重んじたカトリックのフランシスコ会の影響であるという説があります。

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