2004/3/11改定
◆秀吉、怒る天正13年(1585)8月、20数名の大名が転封された。右近も明石六万石を与えられ、出世 とも取れる。大阪西を固めるために重用したとも考えられる。しかし高槻を直接支配下におき、右近を遠ざけたのかもしれない。教会は保証され、高槻領の一部はキリシタン安威了佐にまかされたが、高槻城は秀次に与えられた。この後高槻のキリシタン の信仰は右近色一掃政策により弱まってゆく。 右近はセミナリオを大阪に移す。そして明石での教会建設に燃えていた。明石の仏僧 は秀吉に訴えたが取り合わなかった。 ところが事態は急変する。 日本イエズス会準管区長に新任したコェリョは天正14年(1586)秀吉に謁見。九州での保護 を願う。秀吉は激励し、歓待した上、城中の隅々まで案内した。このときフロイスが通訳した。フロイスの年報では、秀吉がポルトガル船を依頼したように書かれている が、オルガンチノの書簡では、秀吉の歓待に思い上がって、コェリョとフロイスが、 「九州の全キリシタンが秀吉に味方する、ポルトガル船を世話する、秀吉を九州に招 く。」と申し出たとされている。彼らは政治的勢力を持とうとしていた。それに秀吉 が気づかぬはずがない。秀吉の性格を知っている右近とオルガンチノは危険を察知、 とどめようとしたり、話をそらそうとした。オルガンチノは通訳を申し出たが、コェ リョは自分と同意見のフロイスを通訳にしてしまった。 天正15年(1587)、秀吉は島津征討に出陣。陸は高山右近、海は小西行長のクルスの旗がはためいた。島津は5月8日降伏。6月7日秀吉は箱崎(博多)に凱旋。そのときコェリョはフスタ型小型武装南蛮船で秀吉を出迎え、大砲などの武器を見せ、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示した。右近らはその南蛮船を秀吉に差し出すように勧めたが、コエリョは聞かなかった。 秀吉は憤慨した。 かねてから反キリシタンで、秀吉の侍医である施薬院全宗は、このチャンスに秀吉に進言。 キリシタン迫害が始まった。 フロイスの日本史では別の原因が記されている。全宗は秀吉から有馬の良家の器量の良い女性を連れてくるように命令されたが、大部分がキリシタンであった住民はそれを拒否した。 それで全宗は怒りキリシタン全滅を公言し、秀吉も激怒したという。いずれにしてもそれらは表面的な理由、もしくはきっかけに過ぎず、秀吉はかねてからキリシタン排除を計画していたと思われる。 ◆右近、棄教を迫られる天正15年(1587)6月19日夜突然、小西行長の家臣と秀吉の側近により、準管区長コェリョに秀吉の詰問書が届けられた。
同夜、秀吉は右近にも使いを出して次のように棄教を迫った。
しかし右近は次のように答えた。
と右近はいさぎよく領地を返上。 まわりの者たちは、そのような秀吉の怒りをかうような返答ではなく、口だけでも秀吉の意に沿うようにしてはどうかと忠告したが、右近はそのことばどおり伝えるように使者に命じた。
と答えたという。 ◆伴天連追放令発布
その夜半には、ついに伴天連追放令が発布された。 その内容は
翌日6月20日、右近は博多沖の小島に身を隠し、明石にいる家族と主だった人々に知らせ、家族に淡路島に来るように伝え、自分も後に淡路島へ向かった。右近は家臣に対し、おのおのの妻子のために配慮し、糊口を求めよ、と気遣った。この時、長男十次郎は12歳、娘ルチアは生まれたばかりであった。 オルガンティノ神父は宣教師とセミナリオの生徒を平戸へ非難させ、京都の信者は近江へ逃れさせた。
小西行長は右近一家のため小豆島に隠れ家を用意。パアデレには室に隠れ家を用意した。パアデレは日本人の姿で籠にのり、潜行して信者を励まして回った。
しかし翌天正16年(1588)小西行長は肥後南半および天草諸島32万石へ転封になった。右近らも結城弥平次、日比屋ヴィセンテらと共に九州へ向かった。行長は、32万石という新たに得た莫大な禄で右近の旧家臣を迎えいれ、キリシタン、イエズス会を援助することができた。
と書いている。 しかし、コエリョはその後もスペイン国王に軍隊を派遣するように要請していたが、巡察士ヴァリニャーノが、それを阻止し、生糸の日本への輸出を差し止めるという手段 により、事実上、伴天連追放令を骨抜きにした。 ◆金沢へ 右近は有馬で1週間修養生活をしたが、実際に小西行長の肥後には行かなかったようである。その前に、右近が長崎にいることが秀吉に知れ、秀吉が右近を惜しみ、大阪にくるようにと言っているという噂が流れた。行長らは罠
に違いないと、止めたが、右近は行長に迷惑がかからぬようにと、大阪に向かう。 天正16年に右近は加賀藩前田氏預け、事実は客将として迎えられ、その後25年間を金沢で過ごすことになる。
天正18年、小田原征伐に前田家家臣として参加。松井田城(群馬県)、武蔵鉢形城 (埼玉県大里郡)八王子城を攻略。クルスの旗をかざして参戦した。実質的に前田家
家臣として秀吉に赦されている。 「関白どのから離されて、何の支障も無く自由に暮らせるのは恵みだ」 文禄元年(1592年)名護屋で秀吉にお目通りがかなう。翌日茶に招かれる。 ◆26聖人の殉教再び、秀吉の怒りを引き起こす事件が起きた。 スペイン系のフランシスコ会の宣教師が来日、秀吉への配慮もなく活発な布教活動を行うようになった。 26聖人殉教の図 スペイン国王は怒り、日本に戦争をしかけるつもりであったらしい。しかし、神の摂理か、国王フェリペ2世は死去、その5日後、慶長3年8月18日、秀吉も病で死去
した。病に伏せる秀吉に謁見を許されていた宣教師ロドリゲスは、最後まで秀吉に |