荒木村重の謀反、苦境に立たされる右近!

◆荒木村重の謀反

 ところが、天正6年(1578)、右近にとってまたキリシタンにとって危機が訪れた。 摂津守護であり、右近の主君である荒木村重が、毛利、石山本願寺につき、信長に謀反を 起こした。右近は妹、3歳の子を人質に出して忠誠を示し、謀反が罪であること、信長には 勝てないことを説得。しかし中川氏ら強行派に押されて断念せざるを得なかった。  信長、秀吉らは進軍し高槻城に迫り開城を要求。信長にとって高槻は戦略上の要所で、ま た一向宗にたいしてもキリシタン大名は必要な存在であった。ここで右近を失いたくなかっ た。信長はパアデレを使いに出し、加増とキリシタン保護を右近に約束した。 ここで右近は難しい選択を迫られる。 ・荒木につけば、謀反に加担することになり正義に反する。またキリシタンが  迫害される。 ・しかし、信長につけば、人質になっている妹と子を失う。 右近は、荒木と信長を和解させようとしたが、信長は拒否した。 ダリヨは娘、孫を思い、荒木側につくことを主張。城内は2つに分かれる。 信長は怒り、キリシタン皆殺しと教会焼き討ちを宣告。パアデレを監禁した。そして周囲を 焼き討ちしながら、荒木村重の有岡城(現在の兵庫県伊丹市)へ迫る。ダリヨは信長の書状 を握り潰した。オルガンチノ、ロレンソは密かに高槻城に忍び込んだが、ダリヨに監禁され る。  数日間、右近はどれほど祈っただろう。彼はある決意を固めた。密かに城を脱出。髪をお ろし、武器を捨て、信長のもとへ下った。彼は武士であることを捨て城主は父に返上。その 代わりキリシタン保護を願う。受け入れられなければ殉教する覚悟であった。正義を貫き、 かつ、妹、子の命を救い、そしてキリシタンを守る、そのためには武将としての地位も名誉 も捨てる覚悟であった。卑怯者と呼ばれることも覚悟であった。  やがて、右近の家臣がダリヨらを押さえて開城した。信長は喜び、「再びわしに仕えよ」 と促した。この当時信長の命令は絶対であったので、右近は従わざるを得なかったのであろ う。  ダリヨらは有岡城に逃げたが、村重は彼を監禁した。しかし村重らは尼崎へ逃げ、有岡城 は無傷で落ちた。人質は無事であった。  ダリヨも殺されて当然であったが右近に免じて、柴田勝家預けとなり北荘(福井県)に 軟禁。実際は自由に活動できた。後にダリヨ婦人も送られ、ここでも伝道に励んだ。

◆更にキリシタン拡大

 こうして信長のキリシタン保護政策は継続され、安土に教会を建てることを許可した。 右近は家臣1500人を動員して1カ月で3階建てのセミナリオを建てた。右近は築城の 名人とも言われ、教会建築にもその才能を発揮した。多くの武家の師弟たちがこのセミナリ オで学んだ。  天正9年には高槻の領民2万5000のうち、1万8000人がキリシタンとなった。 教会は領内に20程あったという。 天正9年、巡察師ヴァリニャーノが高槻に来て天正4年をしのぐ盛大な復活祭が行われた。 グレゴリオ聖歌が流れ、日本で最初に輸入された小型の移動式パイプオルガンが演奏された という。ヴァリニャーノ、フロイスも驚嘆した。 信長もヴァリニャーノらをいたれりつくせりで歓迎した。

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