右近誕生、父、飛騨守の入信、そして21才で高槻城主となる
◆父、飛騨守の入信
天文21年頃(1552)高山彦五郎、通称右近は摂津高山(現在の大阪府豊能郡)に 生まれる。父、飛騨守は快活、勇猛果敢、武芸、戦術、馬術にもすぐれた武士であった。 後に、松永久秀の配下として大和の国沢城主(現在の奈良県榛原町)になる。
摂津茨木の隠れキリシタンの村から発見されたザビエルの肖像画
右近誕生の3年前、天文18年(1549)ザビエルが来日。翌年入洛したが、戦乱で 荒廃する京に失望して山口で宣教。そこで目と足の不自由な一人の琵琶法師が入信する。 彼こそは後に大きな働きをする日本人イルマン(修道士)、ロレンソである。
ロレンソはパーデレ(神父)入洛の許可を得ようと、当時の仏教界の最高峰、比叡山延 暦寺に乗り込み高僧と交渉。永禄3年(1560)将軍義輝から布教許可もらう。しかし 京でのキリシタン増加と共に仏僧らの反対運動も激化する。
松永久秀は熱心な法華信徒であり、その配下にあった高山飛騨守もキリシタン反対派の 急先鋒であった。飛騨守は結城山城守忠正、公卿清原枝賢(しげかた)と共に、ロレンソ に論争をしかけた。はじめは嘲笑し悪意に満ちていた3人は数日におよぶ議論の末、つい にキリシタンに好意を持つに至った。すぐさま山城、清原は受洗。追って永禄6年飛騨守 も受洗。洗礼名ダリヨ。パーデレを招いて、一族、家臣らに説教を聞かせた。反キリシタ ンの親玉がそろって入信してしまったのだから、京の人々は驚いた。
永禄7年、妻子、家臣など150名程が受洗。右近もそのとき受洗した。洗礼名ジェス ト(義人の意)、12歳であった。飛騨守の熱心さにより、1、2年のうちに高山一族は ほとんど洗礼をうけた。この永禄7年はあの「日本史」で有名なフロイスが来日した年で もある。
◆右近、高槻に移る
永禄11年(1568)和田惟政が信長と将軍義昭の仲を持ち、惟政は摂津の守護とな る。三好三人衆によって沢城から摂津高山に帰っていた飛騨守は芥川城(現在の高槻市) を与えられる。 惟政は強力なキリシタン保護者であり、惟政とダリヨの働きでフロイスは信長、義昭に会 い、布教許可を得る。反対派の攻撃で一時惟政は謹慎となるが、永禄13年高槻四万石を 与えられ高山家も高槻に移る。惟政と信長の保護の下、キリシタンの布教は拡大した。 ダリヨは伝道者のような生活で庶民に伝道して回った。惟政も受洗直前までに至ったが、 ついに死ぬまで受洗の機会はなかった。 元亀元年(1571)オルガンチノ入洛。後に右近のよき同労者となるパーデレである。 このころ右近は、余野の黒田ジェスタと結婚したらしい。黒田家は数年前、一家で受洗し ている。 (あるいは高槻城主となった後に結婚したという説もある。)
◆右近、高槻城主となる
元亀2年、中川、荒木軍とのいくさで和田惟政戦死。高山父子は高槻を死守。右近のめ ざましい働きがあったと言われる。息子惟長が後を継ぐが、父惟政は遠く及ばぬ人物で、 高山父子に家臣の信望が集まり、高山父子暗殺を図る。このとき、フロイスによると、右 近は和田家の敵、荒木村重と同盟を結んだらしい。右近と惟長は話し合いに望んだが切り 合いになり、右近は重傷。惟長も負傷しながら逃亡。伏見で死亡した。なぜこのような事 態に至ったか謎が多い。フロイスは「不思議な事件」と書いている。下克上のこの時代に はよくあることだが、主君に忠実であることを、武士道からしてもキリシタンとしても守 り通した右近としては納得がいかない。 このころ信長と義昭が不和になり、荒木は信長についた。流浪の義昭を世話し信長と の仲を取り持った和田家は、本来義昭側である、という事実から、 和田家内で義昭派と反キリシタン(反高山)派が結びついた。 高山氏はキリシタン保護者としての信長についた。 ということが考えられる。また右近自身が父の影響で受洗したものの自覚的信仰はまだ未 熟であったのではないかと推測する研究者もいる。布教を進めるために城主の立場が必要 で「乗っ取り」を謀ったのだという見方もされるが、後の高山父子の姿勢からみれば、そ のようなことは考えにくい。惟長に非があったということは、フロイスの日本史、陰徳太 平記から確かなことのようだ。 このようにして高山飛騨守ダリヨは高槻城主となったが、まもなく右近に譲り、このと きから高山右近友祥(ともなり)と名乗る。21歳。ダリヨは引退して、伝道、教会の奉 仕、貧者の救済に専念する。
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