内藤ジョアン(如庵)

右近と共にマニラへ追放された内藤ジョアンとは、どんな人物だったのでしょうか。

本名:内藤飛騨守忠俊(幼名:五郎丸)

 管領細川氏の丹波守護代・内藤備前守定房の娘と松永長頼(後の内藤宗勝)の子、五郎丸はザビエルが日本に上陸した次の年に生まれた。

 父・松永長頼は松永弾正久秀の実弟であったが、内藤備前守定房の娘と政略結婚。 長頼は、武勇に富み合戦で大きな勝利を得た恩賞として内藤の姓を将軍より許されて、内藤法雲宗勝と称した。
 八木城は建武2年 (1335年)から天正7年(1579年)落城するまで二百数十年あまり、足利幕府の中核として丹波一円を守り続けてきたが、足利幕府の崩壊により明智光秀によって、落城した。

 山口から逃げてきたキリシタン、カタリナは内藤土佐守と結婚。土佐守は人望厚く、後に総家老職の座につく。カタリナは五郎丸を寵愛し、五郎丸はカタリナの影響を受け、キリシタンの信仰の道に入ってゆく。
 京都の南蛮寺まで通うようになった五郎丸は世間の噂が偏見や虚言であることを確認し、神父の話しに感銘し入信を決意する。永禄8年(1565)16歳の時フロイスから洗礼を受け、ジョアンという洗礼名(日本語読みはヨハネ)を授けられる。

 ジョアンは八木城に宣教師を迎え母や妻、子供たち、家臣たちに説教を聞かせ、次々と洗礼を受けていった。
妻はマリヤ、長男はトマス、次女はテクラ、次男はパウロとそれぞれ洗礼名が授けられている。

 ジョアンが洗礼を受けた同じ年、当時の八木城主、内藤備前守国貞と内藤定房が討死し、八木城は陥落。出陣先で八木落城を聞いた宗勝は直ちに八木城に引き返し奮戦の末、八木城を奪還したが、夜中奇襲をかけられて不意をつかれ七百余の兵と共に全軍玉砕した。
 ジョアン内藤は洗礼を受けた三ヵ月後に父を亡くした。
 その後世継ぎ問題が起きる。僧侶である内藤定房の兄弟は、かねてから内藤家の血縁でない宗勝に反感を持っており、ジョアンの母に、ジョアンが城主になることを諦め、キリシタンの信仰を捨てるよう迫った。 しかしジョアンの母はこれに応じなかったためこの僧侶に殺されてしまった。
 フロイスの記録では、ジョアンはこの時より城主のことなど一向に気にもかけず、ただひたすらに信仰の道に深く入っていったとある。
ジョアンは母の葬儀を簡素に行い、余ったお金で城下の困っている人々を招き食べ物と金銭を分け与えたため、悲しみに暮れるはずの葬儀が喜びの時となったと言われている。


 天正元年(1573年)足利義昭が反信長の兵を挙げ、ジョアンは義昭を支援して二千人の軍勢を京都へ送っ た。十字架の旗をひるがえし、自らJHS の文字をはめ込んだ兜をかぶった。 義昭はまもなく信長に降伏。

 天正3年(1575年)信長は明智光秀に丹波平定を命じ、天正6年八木城は没落。

 このときのろう城の最中、フロイス、ロレンソが八木城を訪問。数百人が洗礼を受けたと言う。

 ジョアンは堺の足利義昭のもとへ逃れた。

 天正15年(1587年)義昭と秀吉が和解。ジョアンはキリシタンでもある小西行長に仕えるようになる。(しかし同年秀吉は、伴天連追放令を発布。高山右近は追放されている。)


 天正20年(1592年)小西行長の客将として、共に朝鮮出兵に参加した。救援明国軍との泥沼のような戦いで、双方共に多数の戦死者を出し、悲惨な戦争を終結に導く為に、行長の要請によって明国の首都北京に全権講和大使として赴き、非常な苦労の末に遂にこの「文禄の役」の終結に成功した。

 その後、関ヶ原の戦い(1600年)に破れ行長が処刑されると、ジョアン財産を没収され、流浪の身となる。
 慶長8年(1603年)高山右近の招きにより加賀の前田家に迎えられる。右近と共に布教と茶道に精進する。
 しかし、慶長19年(1614)徳川幕府のキリスト教の禁教令より、内藤如庵は内藤一族や高山右近らと共にフィリピンのマニラに国外追放された。

 母国を追われマニラに流された彼は、異国の地マニラに着いた時、予想もしなかった大歓迎を以て迎えられ、外国語の医書や教義書の翻訳に従事してつつましい信仰生活をおくり、住民に敬慕されて、初めて彼の地に安住の地を得たと記しされている。そして寛永3年(1626年)73才の波欄の一生を、妻マリア、妹ジュリアや子供達と多くの現地の宣教師や修道院の人達に見守られながら、眠るように安らかに昇天したと語られている。
 ジョアンの亡骸は、マニラ市郊外の高山右近の墓の隣に埋葬されたと伝えられている。

 キリシタン弾圧により、ジョアンに関する史料や文書・記録等は悉く抹殺されてしまったかもしくは隠蔽と書き換えによって、その史実を明らかにするのが非常に困難であったが、多くの研究者の努力により次第に明らかになってきた。
 宣教師フロイスの書簡に記されているところでは、「日本人の誰よりも信仰厚くキリシタンの鑑である」というように当時の彼は高く評価されていた。

 マニラ市と八木町は姉妹都市として交流を深めており、現在ジョアン内藤の記念碑がJR嵯峨野線八木駅から徒歩で15分の城山の麓にある。

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