私たちが普通イギリスと呼んでいる国は正式には「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国 (United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」といい、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの四つの地域から成り立っています。これらの地域はかつては別の国でした。
6.1 国王が「鍵」を握るイングランド国教会の誕生
イングランドへも宗教改革の波は押し寄せましたが、その始まりは政治的なものでした。国王ヘンリー8世は、妻であるスペイン王女と離婚して別の女性と再婚したかったのですが、ローマ・カトリックは離婚を禁止しているので認められませんでした。そこで国王は、1534年に「首長令」というものを出して教会を自分の支配下におき、修道院を解散してその財産を没収してしまいました。国王が「鍵」が握ったのです。後には教会の統治権は大主教に委ねられるようになります。
ここに国王を首長とする英国国教会(アングリカン・チャーチ、日本では聖公会と呼ぶ。)が始まり、カトリックと決別したのです。したがって政治的な改革でした。
このような経緯で生まれたため、当初はカトリックと大差のない教会でした。しかし、やがてカルヴァン派の影響を受けて、内部対立が激しくなっていきます。カトリックへの回帰を主張するグループから、国教会を認めない独立派まで、さまざまなグループの間で揺れ動きました。
ヘンリー8世と離婚された妻との間に生まれた女王メアリ1世(スコットランド女王のメアリとは別人)が即位すると、カトリックを復興させ、国教会派を弾圧し、「血塗れメアリ」と呼ばれました。その後、エリザベス1世が1559年に統一令を出し、カトリックとカルヴァン主義の折衷という形で一本化されました。
今日でも、エリザベス女王を首長とする英国国教会は、カトリックとプロテスタントの間を行く中道路線を歩んでいます。
6.2 非国教会派への迫害
スコットランドの女王メアリ・スチュアートは、カトリックであったためにスコットランドで長く幽閉されていましたが、イングランドへ脱出して、(王家と血縁関係があるため)エリザベス1世と王位を争いましたが軟禁され、ついに処刑されました。 独身であったエリザベス1世が亡くなると、皮肉なことにメアリの子スコットランド王ジェームズ6世が、イングランドの王ジェームズ1世として即位しました。(1603年)同時にスコットランドはイングランドの支配下に置かれました。
ジェームズ1世は監督制度(イギリス国王を首長として、教会は国家の監督・支配を受けるというしくみ)を重視し、ピューリタンなどの非国教徒を迫害したので、彼らは信仰の自由を求めて1620年メイ・フラワー号でアメリカ大陸に移住しました。
このジェームズ1世の功績として注目に値するのは、1604年から7年かけて1611年に『欽定訳聖書』 (Authorized Version)を完成させたことです。華麗な文体、豊かな表現、また英語の美しさでは傑作と言われ、その後数百年に渡って英語の標準聖書として親しまれています。これはピューリタンの要求の中で彼が受け入れた唯一のものだそうです。
次の国王チャールズ1世(1625〜49)も同様の専制を行い、1637年、長老派が優勢なスコットランドに国教会を強制してスコットランドの反乱(1639)を招きました。
そしてついに、ピューリタンの多い議会派と王党派との間で内戦が始まり、ピューリタン革命(1642〜49)へと発展していきました。
6.3 スコットランド
スコットランドはイングランドと戦争状態にあり、教会もローマ直轄で独自の歩みをしました。
カトリックの司祭ジョン・ノックス(1505−72)は20代からカトリック教会に反感を感じており、宗教改革者ウィシャートに強く影響され、1547年に改革派の牧師となりました。同年イングランドに敗れた女王メアリー・スチュアートはフランス宮廷に王妃として送られました。
カトリックの女王メアリ1世がイングランドの王位に就くと、ジョン・ノックスはジュネーブに逃れ改革派の牧師となり、カルヴァンに出会いました。1559年帰国すると、スコットランド信仰告白を議会に提出、カルヴァン派のスコットランド長老教会が誕生しました。ローマ教皇の権威を否定し、カトリックのミサを禁止、徹底した改革を行いました。ノックスの死後長老制になります。
1561年メアリー・スチュアートがフランスからスコットランドに帰国し、カトリックのミサを再開し、ノックスと対立しましたが、軟禁され後にイングランドに逃れました。
ノックスの死後、メアリ・スチュアートの子ジェームズ1世がイングランド王になるとスコットランドを支配下に置き、イングランドの教会制度が強要されました。国家と教会の軋轢は続き、信仰告白の実行を約束する国民契約が1581年に結ばれますが、王はそれを守らず、スコットランド教会は主教制とイングランド形式の礼拝の廃止を求める国民契約を再度1638年に公表しましたが戦争に発展し、一部の強硬派(スコットランドカペナンターと呼ばれる。)はアイルランドに亡命し、後にアメリカ長老教会へとつながります。宗教と国家の分離を認めない人たちは、国内に残りました。
6.4 ピューリタン革命
この内戦はオリヴァ=クロムウェル(1599〜1658)によって議会派の勝利に終わり、国王は処刑され、共和制となりました。ピューリタン革命のさなか、1643年ウェストミンスター教会会議が開かれ、長老派は長老制による国教会を作ろうとしましたが、革命により教会の自由を求める会衆派が優勢となり実現しませんでした。クロムウェルは独立派であったため、政治的には王政を望む長老派を議会から追放しました。
ウェストミンスター教会会議では改革派の信仰告白として有名なウェストミンスター信仰告白が採択されました。スコットランド教会もこれを受け入れました。
クロムウェルは、1658年に亡くなりましたが、その息子が無能で議会の支持を失い、1660年、チャールズ2世(フランスに亡命していたチャールズ1世の子)が即位して再び王政に戻ってしまいました。(王政復古)。
非国教会派の信仰の自由は、このときは一時的なものに終わりますが、1689年名誉革命により自由を獲得しました。国教会も存続しましたが、寛容令により非国教会も独立の宗教団体として許可されました。
6.5 徹底した改革をめざす非国教会派
注目すべきは、この国教会に満足しない改革派(その総称がピューリタン)が、多くの迫害を絶えながら、後のアメリカのキリスト教会の主流となる教派を生み出して行ったことです。主なものは、長老派、会衆派、バプテスト派、クウェーカ派です。
長老派は首長制でなく、民主的な長老制の教会を望みました。全国の教会が長老会の指導下におかれる全国的な統一教会の実現をめざしましたが、政治的には国王と妥協して立憲王政の実現をめざしていました。実際イングランドで長老教会が成立するのはずっと後になります。
会衆派は、教会同士の支配関係を拒否し、各教会の自主独立を主張するグループです。独立派とも呼ばれます。政治的には、王権の制限と議会主権を主張し、ピューリタン革命で共和制を実現しました。
バプテスト派は、幼児洗礼を認めず、個人の自覚的信仰に基づく洗礼と、教会加入を重視します。教会制度においては会衆派と同じ考えです。
これらのピューリタンがピルグリム・ファーザーズとしてアメリカに渡り、アメリカの基礎を築きました。彼らはイングランドで実行できなかった改革をアメリカで実行しました。
バプテスト派も後にアメリカに渡り、アメリカ最大の教派になり、福音派、原理主義の中心的存在でもあります。
クウェーカ派はフレンド派とも呼ばれ、祈るときに体を揺することからこの名が付きました。
ドグマ(教条主義)に対する反発から、クエーカーは聖書を唯一の拠り所とし、それ以外は一切認めないため、組織的な教会や団体を持ちません。キリストとの直接の交りを体験することを目的とした各人の学習、祈り、瞑想に重点を置きます。
(絶対平和主義を唱え、兵役拒否を行い、第二次大戦中は、日系アメリカ人の収容所で日系人を助けました。)
6.6 自由の国アメリカへ
こうして、イングランドから会衆派、長老派が、そしてスコットランドから追放された長老派がアイルランドから、バプテスト派もイングランドから、そして亡命したオランダから、続々と新天地アメリカへ自由を求めてやってきました。それぞれに「天の国の鍵」を手にして。
この頃日本では? 1549(天文18) フランシスコ・ザビエル来日、キリスト教を伝える |
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