一説によると右近の先祖は、今の滋賀県甲賀郡水口町高山まで溯ることが
できると言う。ここに古くから藤原の姓を名乗る一族が居住し、後に高山と
名乗るようになった。
その子孫、高山源太左衛門は長亨の乱(1487年)に戦功があったため
甲賀五三家の一つに数えられている。その高山家の支流が摂津の国高山(現
在の大阪府三島郡)に城を構えたとされ、右近はそこで産まれた。甲賀五三
家には、後の高槻城主で右近と親しかった和田惟政の先祖もいる事実はこの
説を裏付けるものであろう。
別の説では、桓武平氏平重綱の子高山二郎重遠を祖とする系図がある。同系図
によれば、『太平記』には高山遠江守の名が記され、新田十六騎の一人であった。
越前守範重なる人物は武蔵野合戦(1352年)で将軍足利尊氏方に属して功があり、
上野国那波郡のうちに所領を賜った。その子孫重利(右近の祖父)が摂津国茨木に
移住したとされる。
一方、摂津高山の豪族が、実権を握って領主になった際、当時の慣例によ
り、その地名を自分の姓としたとも考えられる。摂津において高山の名が現れるのは、15世紀半ばである。高山氏は勝尾
寺(現在も大阪府箕面市に現存する。)の代官であった。勝尾寺の記録によ
ると、1458年に「高山入道」という代官がいた。この領地をめぐって、
寺と高山氏の確執が続き、ついに高山氏が権力を握った。
右近の妻の父は、フロイスの書簡に余野の「クロード氏」と書かれているだけで
「黒田氏」と解釈されているが、日本側の資料には、余野に黒田という家系
は無い。フロイスによると、右近の父の勧めにより一族でキリシタンになった。右近の子供については、資料が少ないので不明な点が多いが、イエズス会資料によると
1575年に長男十次郎(洗礼名ジョアン)が生まれ、その後生まれた3人の子供が幼くし
て亡くなり、1587年に娘(ルチア)が生まれている。
十次郎は結婚して5人の子が生まれているが、1608年に十次郎夫婦共に亡くなり、子供た
ちが残され、右近らに育てられたようある。
娘ルチアは加賀の横山康玄に嫁いだが、伴天連追放令が出てから離縁して右近らと行動を
共にした。
長男以外の息子については上述のようにイエズス会資料では死亡したことになっているが、大分在住の右近
の子孫に伝わる家系図によると、右近が加賀に追放されたとき、幼い息子助之進が大友義統に
匿われ生き延びたとされる。高山右近(マニラにて死去)
妻 ジュスタ(マニラから帰国)(豊能郡余野の黒田氏の娘)
長男 ジョアン(妻と共に病死)
孫(ジョアンの子)5人(マニラに同行、後1人帰国)
次男? 忠右衛門
孫(忠右衛門の子)八左衛門次男? 助之進
大友家に身を寄せる。
娘 ルチヤ(マニラに同行、後帰国)
マニラに追放されたときに右近と同行したのは、妻と娘ルチアと5人の孫たちであったこと
が記録に残されている。
現在、高山右近の直系の子孫は、石川県の能登半島の羽咋郡志賀町の高山家 と、大分市の
高山家がある。右近がマニラで亡くなった後の1616年、妻とルチアと孫のひとりが帰国し
ていることが ロドリゲス神父の書簡に記されているが、この孫(長房)の子孫が石川県志賀町に
ひっそりと住み着き、現在の志賀町代田の高山家の祖先となったという。高山家に伝わる掛け軸
に、”高山右近孫長房”と記されている。
子孫はある時期は迫害のためか北海道に移住したようだが、大正初めに再び志賀町に戻った 。一方、大分市大在にある1802年の碑文には、右近の次男亮之進(助之進)が、大友義統
(キリシタン大名であった大友宗麟の子)にかくまわれ、その子孫が大分の高山家であると記されている。
(現在その碑は大分市の舞子浜霊苑に移されている。)
昭和12年、片岡弥吉教授が、元大分市長の高山英明氏の系図を発見して、亮之進の子孫で
あることを確かめた。同時に高山南坊の塔を発見、そこには
”曩祖(のうそ)摂州 高槻城主 高山右近太夫長房塔”
と記されている。
昭和12年8月6日付北国新聞の記事によると、この大分での子孫発見の報を聞いて志賀
町の高山家も、掛け軸を出して子孫の”名乗りを挙げた”そうである。しかしその後、大分の高山
家は研究者の間でもあまり知られていなかったが2001年に大分市大在地区文化財同好会が
綿密に調査を行い、再び明らかになってきた。大分に伝わる家系図には、右近が加賀に追放されたとき、”母少将中川ノ女”とともに大友家
に逃れてきたとされる。ここに、右近らとマニラにも同行していない息子の存在が浮かびあがった。
1590年頃(右近が加賀の前田家にいたころ)幼い子がいたらしいということだけはわか
っている。大友宗麟が亡くなって義統が後を継いだのが1587年、義統が朝鮮の役の失敗で改易されたの
が1593年以降であるから、右近が伴天連追放令により小西行長にかくまわれていたころ、
もしくは金沢に移る頃 (1588年)に大友義統に預けたと考えられる。しかし伴天連追放令の後棄教し、親族
でさえ迫害した義統を頼るというのは考えにくいことでもある。
また、右近一家はその後金沢で25年間平穏に暮らしていたことを考えると、なぜ息子を金沢に
呼び寄せなかったのか、という疑問も残る。
これは今後の調査を待ちたいと思う。
また、母は右近と生涯行動を共にしているので、この”母少将中川ノ女”とは誰なのか、という
問題がある。キリシタン大名は側室を持たないし、まして右近ことである。関根和美氏は、血統を
守るために女の従者を母の名目で付けたのではないかと著書(「私の高山右近」)に書かれている
が、迫害の中、幼い息子の身を案じ、信頼できる侍女に息子を委ね、この侍女が生涯母の役目をし
たとも考えられないだろうか。また、もうひとりの息子の存在が松田氏によって明らかにされている。永原家の系図に
高山右近の子忠右衛門が近江永原にいた永原重信の三女と結婚したと書かれている。
この忠右衛門が、亮之進と同一人物なのか、別人なのか不明である。
簡単な家系図はこちら(PDF)
石川県の高山家には、右近の掛け軸と系図があり、1998年志賀町の高山豊次さん(当時68歳)ら親族で「右近をしのぶ会」を発足させたという。 | 上は石川県の高山家に伝わる掛け軸。系図が記されている。 | |||
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大分の子孫が発見された当時の新聞記事
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大分の塔は、現在大分市の舞子浜霊苑に移されている。(上の写真は大分市大在地区文化財同好会提供) |
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★大分の子孫発見時の最初の新聞記事内容
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