右近の先祖、家族、子孫


2004年3月11日更新

★右近の先祖

 一説によると右近の先祖は、今の滋賀県甲賀郡水口町高山まで溯ることが
できると言う。ここに古くから藤原の姓を名乗る一族が居住し、後に高山と
名乗るようになった。
 その子孫、高山源太左衛門は長亨の乱(1487年)に戦功があったため
甲賀五三家の一つに数えられている。その高山家の支流が摂津の国高山(現
在の大阪府三島郡)に城を構えたとされ、右近はそこで産まれた。甲賀五三
家には、後の高槻城主で右近と親しかった和田惟政の先祖もいる事実はこの
説を裏付けるものであろう。

 別の説では、桓武平氏平重綱の子高山二郎重遠を祖とする系図がある。同系図
によれば、『太平記』には高山遠江守の名が記され、新田十六騎の一人であった。
越前守範重なる人物は武蔵野合戦(1352年)で将軍足利尊氏方に属して功があり、
上野国那波郡のうちに所領を賜った。その子孫重利(右近の祖父)が摂津国茨木に
移住したとされる。

 一方、摂津高山の豪族が、実権を握って領主になった際、当時の慣例によ
り、その地名を自分の姓としたとも考えられる。

 摂津において高山の名が現れるのは、15世紀半ばである。高山氏は勝尾
寺(現在も大阪府箕面市に現存する。)の代官であった。勝尾寺の記録によ
ると、1458年に「高山入道」という代官がいた。この領地をめぐって、
寺と高山氏の確執が続き、ついに高山氏が権力を握った。

★右近家族

右近の妻の父は、フロイスの書簡に余野の「クロード氏」と書かれているだけで
「黒田氏」と解釈されているが、日本側の資料には、余野に黒田という家系
は無い。フロイスによると、右近の父の勧めにより一族でキリシタンになった。

右近の子供については、資料が少ないので不明な点が多いが、イエズス会資料によると
1575年に長男十次郎(洗礼名ジョアン)が生まれ、その後生まれた3人の子供が幼くし
て亡くなり、1587年に娘(ルチア)が生まれている。
十次郎は結婚して5人の子が生まれているが、1608年に十次郎夫婦共に亡くなり、子供た
ちが残され、右近らに育てられたようある。
娘ルチアは加賀の横山康玄に嫁いだが、伴天連追放令が出てから離縁して右近らと行動を
共にした。
長男以外の息子については上述のようにイエズス会資料では死亡したことになっているが、大分在住の右近
の子孫に伝わる家系図によると、右近が加賀に追放されたとき、幼い息子助之進が大友義統に
匿われ生き延びたとされる。

高山右近(マニラにて死去)

妻 ジュスタ(マニラから帰国)(豊能郡余野の黒田氏の娘)

長男 ジョアン(妻と共に病死)

孫(ジョアンの子)5人(マニラに同行、後1人帰国)

次男? 忠右衛門
    孫(忠右衛門の子)八左衛門   

次男? 助之進
    大友家に身を寄せる。

娘  ルチヤ(マニラに同行、後帰国)

マニラに追放されたときに右近と同行したのは、妻と娘ルチアと5人の孫たちであったこと
が記録に残されている。

★右近の子孫

 現在、高山右近の直系の子孫は、石川県の能登半島の羽咋郡志賀町の高山家 と、大分市の
高山家がある。右近がマニラで亡くなった後の1616年、妻とルチアと孫のひとりが帰国し
ていることが ロドリゲス神父の書簡に記されているが、この孫(長房)の子孫が石川県志賀町に
ひっそりと住み着き、現在の志賀町代田の高山家の祖先となったという。高山家に伝わる掛け軸
に、”高山右近孫長房”と記されている。
子孫はある時期は迫害のためか北海道に移住したようだが、大正初めに再び志賀町に戻った 。

 一方、大分市大在にある1802年の碑文には、右近の次男亮之進(助之進)が、大友義統
(キリシタン大名であった大友宗麟の子)にかくまわれ、その子孫が大分の高山家であると記されている。
 (現在その碑は大分市の舞子浜霊苑に移されている。)
昭和12年、片岡弥吉教授が、元大分市長の高山英明氏の系図を発見して、亮之進の子孫で
あることを確かめた。同時に高山南坊の塔を発見、そこには

”曩祖(のうそ)摂州 高槻城主 高山右近太夫長房塔”

と記されている。

 昭和12年8月6日付北国新聞の記事によると、この大分での子孫発見の報を聞いて志賀
町の高山家も、掛け軸を出して子孫の”名乗りを挙げた”そうである。しかしその後、大分の高山
家は研究者の間でもあまり知られていなかったが2001年に大分市大在地区文化財同好会が
綿密に調査を行い、再び明らかになってきた。

 大分に伝わる家系図には、右近が加賀に追放されたとき、”母少将中川ノ女”とともに大友家
に逃れてきたとされる。

 ここに、右近らとマニラにも同行していない息子の存在が浮かびあがった。
1590年頃(右近が加賀の前田家にいたころ)幼い子がいたらしいということだけはわか
っている。大友宗麟が亡くなって義統が後を継いだのが1587年、義統が朝鮮の役の失敗で改易されたの
が1593年以降であるから、右近が伴天連追放令により小西行長にかくまわれていたころ、
  もしくは金沢に移る頃 (1588年)に大友義統に預けたと考えられる。しかし伴天連追放令の後棄教し、親族
でさえ迫害した義統を頼るというのは考えにくいことでもある。
  また、右近一家はその後金沢で25年間平穏に暮らしていたことを考えると、なぜ息子を金沢に
  呼び寄せなかったのか、という疑問も残る。
 これは今後の調査を待ちたいと思う。

 また、母は右近と生涯行動を共にしているので、この”母少将中川ノ女”とは誰なのか、という
問題がある。キリシタン大名は側室を持たないし、まして右近ことである。関根和美氏は、血統を
守るために女の従者を母の名目で付けたのではないかと著書(「私の高山右近」)に書かれている
が、迫害の中、幼い息子の身を案じ、信頼できる侍女に息子を委ね、この侍女が生涯母の役目をし
たとも考えられないだろうか。

 また、もうひとりの息子の存在が松田氏によって明らかにされている。永原家の系図に
高山右近の子忠右衛門が近江永原にいた永原重信の三女と結婚したと書かれている。
この忠右衛門が、亮之進と同一人物なのか、別人なのか不明である。

簡単な家系図はこちら(PDF)

石川県の高山家には、右近の掛け軸と系図があり、1998年志賀町の高山豊次さん(当時68歳)ら親族で「右近をしのぶ会」を発足させたという。 上は石川県の高山家に伝わる掛け軸。系図が記されている。
 高山南坊の子孫
   墓守って大分に現存
      没後三百年・今漸く判る
        加賀藩史に新しき一頁

今から三百年前・・・わが前田藩主に仕へて文と武の両道にその天与の才能を傾けた高山右近長房こと高山南坊がキリシタンバテレンとあって遠くルソンに追放、 そこで余命をすごしたことは郷土史上明らかであるが其後一家はどうなったか・・ 爾来三百年の間、絶えてその消息は知る由も無かったが図らずも今度長崎市の人 片岡弥吉の著作にかかる「高山南坊伝」の刊行によって、その子孫が名乗りを挙げ 同時に高山家墓地と南坊の塔が発見され郷土史上に新たな色彩の一頁を刻んだ

 その子孫といふのは元大分市長の栄職にあった高山英明氏その人であり 英明氏には道男、虔三の二人の子息があって現在大分市で活版業を 営んでいる、しかして父子ともにキリシタン史の造形極めて深く また熱心な耶蘇信者だと言われている、今に伝わる系図によると、南坊の次男であった亮之進はマニラで父が病気して一家離散した日、身をもってマニラを逃れて単身故国に帰り大友義統に頼って義統から田地を与えられ大分県北海部郡大在村を永住の地と定めた、大分市へは後何代目かの子孫に至って移住したものらしく今なほ、大在村や同郡東大分村等に多数の分家が散在しこれらの子孫数家が年々交替で系図を保管し合っているなほ前記大在村に現存する塔の碑面には
     摂州高槻城主高山右近大夫長房の塔  裏面には
     享和二???  夏七十九才 高山淡水造之
 とあり享和二年子孫高山淡水なるものが始祖右近大夫長房の遺徳を弔って建立したことが明らかでありまた系図によって大分市に現存する高山英明氏が子孫であることも確証されたわけであるさらに又系図によると子孫の多くは医業を営んで生計をたて代々恕庵と称していたことが窺われる、その雅号から推察するに熱心な耶蘇信仰の父の血を受けたこれらの子孫代々が手厳しい幕府の弾圧を逃れて連綿耶蘇を信仰していた物らしい。 

 北国新聞  昭和12年12月16日

大分の子孫が発見された当時の新聞記事

大分の塔は、現在大分市の舞子浜霊苑に移されている。(上の写真は大分市大在地区文化財同好会提供)

  羽咋郡西土田村に
   高山南坊の子孫
      連綿伝はる掛軸に残る由来

 前田藩主に仕えて才能を請われた高山南坊こと高山右近大夫長房
のしそんは図らずも長崎市の片山弥吉氏著作の「高山南坊伝」によ
  って嘗て大分市長だった高山英明氏が同家に伝はる系図によって
  子孫で有るこ判明し同時に高山家墓地と南坊の塔が発見された
  こと既報したが、右の記事によって奇しくも高山南坊の子孫が能
   登からも名乗りを上げてきた
 其子孫といふのは石川県羽咋郡西土田村字代田高山九太郎氏(48)で
 同氏は片岡弥吉氏刊行の高山南坊伝によって発見された南
 坊の塔に刻み込まれたある
     摂州高槻城主高山右近大夫長房の塔
 の文字と同氏に長く伝はる掛軸にも同様の事が記してあり加ふる
 に先祖が代々医者を業としていたといふ子孫として誤りない
 ことが判ったといふ、その掛軸は慶応元年田鶴浜の悦捜寺住職宋苗
 和尚が書いたもので文面には同氏の三代先である高山右中が親交ある
 宋苗和尚に
  右中 の先祖である高山南坊および自分のことについて子孫
 に残す為に書かしたもので現在の高山家は曽祖父 高山右中から
 祖父節庵、父豊機を経て現在に至っている、祖父右中は医者を業と
 して羽咋郡堀松村字末吉に住んでいた、その死亡後祖父節庵も医業
 を継ぎ生活していたが家業の都合から北海道に渡り後に又堀松村に
 帰って死亡した、久太郎氏の兄周造氏は金沢医専卒業後死亡し
 久太郎氏がその後を継いで今日に至ったものであるといふ
  掛軸には
  前略在高山節庵道士者而今為秀才之良医其祖先出呼摂州高槻城
  主高山氏而為南甫右近之大夫長房孫長房嘗移居加州尾山遍石坂 
  郷伝其子孫有道得重移居当邦末吉之里夫乾夫地魚処蔵按節庵道
  士者長房之後胤而 代及数百才而絶其姓云々
 とあり、これによると高山南坊の孫長房は現在の石坂に移り住んで
 いたものらしく、その子孫有道、徳重に至って掘松村字末吉に至り
 しかして右中を経て節庵に至ったものらしい
   なほ同氏の叔母に当たり右中の一番末子でそのいといふ人が福岡
   県京都郡今川村字大野井安広伸三氏方に嫁してをり数年前に死亡
   その際久太郎氏の母堂が参詣している当の事実あり、これ
   から見ても高山南坊の子孫に間違いないといふのである
   (写真は大分市における南坊の墓と掛け軸)

          北国新聞  昭和12年 8月 6日   

上と左の記事は昭和12年に、片岡教授が大分の子孫を発見した後に、石川県の子孫が名乗りを挙げたことを 伝える記事。(写真の塔は大分のもの)
★大分の子孫発見時の最初の新聞記事内容

  本紙記事で判った
   吉利支丹大名の末裔
     石塔も探し当てて驚喜する
      当の高山元大分市長

加賀藩主前田利家に仕えて天稟の才と築城の技を請われた吉利支丹殉
 教徒高山南坊が後徳川幕府の吉利支丹禁圧令にあって金沢から遠くマ
 ニラに流され、そこで客死してより三百二一年目の今日、ふとした
 機会から南坊の子孫が大分で現存してをり次いで石塔も発見され
 たことが本誌の記事によって判明南坊研究のの金沢の郷土史家桂井未 
 翁氏はじめ関係者を驚喜させ石川県史に新たな一頁飾ることとなった
 ーーーー全世界のカトリック信者がら今なお"ジエスト右近殿"と尊
 敬され日本吉利支丹迫害史上吉利支丹大名として特記されている摂津
 高槻城主高山右近大夫長房がマニラへ流罪の際船出の港であった長
 崎の南坊研究家(59)のもとへ元大分市長同蓬莱町高山英明氏(63)から
   大阪毎日新聞地方版に掲載の貴下の右近伝に探し求めて
   いた高山家の祖先が右近であったことがはじめてわかった。
 と通知して来た。そして両氏が大分で会見の結果、高山家は右近が 
 流罪の際、血統を残すため次男亮之進を大分県北海部郡大在村に従
 者をつけて落としたその後継でクリスチャン・ネームを
 恕庵と号し、大在村および他二カ村にも子孫が栄え、大在村の高山
 家墓地から右近大夫長房と右近顕彰碑が発見され碑文によって系図
 がはっきりわかった、近く英明氏を中心に"右近供養"を営みその
 冥福を祈ることになった。右につき片岡氏は語る。
   御紙地方版に掲載された私の小著によって全国の右近研究家が
   探していたその子孫がわかってこんな嬉しいことはありません
   (この項長崎発)
 
 
大阪毎日新聞  昭和11年12月19日

 

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