家康によるマニラ追放

◆家康の独裁
秀吉没後、5大老、5奉行の合議制となる。大老の筆頭は家康、利家であり、奉行の
筆頭は三成であった。キリシタン同情者が多く、しばらくは平穏であった。
慶長4年、利家死去。利家の子、利長も金沢へ引き上げざるを得なくなり、家康独裁
が始まる。
慶長5年、三成、行長らは家康の横暴に怒り兵を起こす。利長、右近は家康につく。
家康は右近を高く評価したが用いようとはしなかった。小西行長などのキリシタンへ
の不信があった。右近も家康の野心を読み取り、近づかなかった。
◆北陸宣教の前進
右近は加賀、能登、越中での布教に尽くした。
慶長8年、内藤如安が加賀へ招かれる。関ヶ原で負け流浪のみであった。
家康からは反逆者とみなされていたにもかかわらず。
金沢の教会は活気付き、利家の有力な家臣80名が受洗。
慶長12年宇喜多家も金沢へ。やはり関ヶ原で敗戦後没落した。宇喜多秀家の妻だった
が、北政所に仕えていて洗礼受けた利長の妹、豪姫も共に金沢に来た。
1614年度イエズス会日本年報では金沢が日本でもっとも栄えた教会の1つとして
書かれている。
◆マニラ追放
家康はキリシタン大名を静観していた。貿易権、採掘、造船技術を得るために彼らを
利用していた。決して秀吉の禁制を廃止したわけではない。(イエズス会はこれに注
意していた。)利用価値がなくなれば、封建社会にっとては危険思想としてむしろ排
除すべきものであった。ただその機会を伺っていたに過ぎない。
慶長17年(1612)有馬晴信と岡本大八の内紛をきっかけとして取り調べを開始。
棄教しなかった旗本14名を追放。利長でさえ右近、如安に棄教を求めた。
慶長18年、各地で迫害が荒れ狂う。しかしますます信仰を燃やすキリシタンに、家
康は怒り「伴天連追放令」を発布。伴天連の国外追放とともにキリシタン宗門の全面
的禁圧を命じた。
家康は右近、如安一族を京都所司代板倉勝重に引き渡すよう利長に命令。
慶長19年(1614)彼らは雪の中を徒歩で京都へ。見かねて籠を提供されたが右
近は断った。多くの人が町の外まで泣きつつ見送った。
10日後に坂本へ到着。京都のキリシタンが勇気を得て立ち上がることを恐れて、3
0日間そこで足止めされた。その間に右近は「たとえ親が転んだと聞いてもそれは策
略だからこころを動かすな」と励ましあった。
女こどもは京都にとどまってよい、と言われたが、しかし婦人たちも勇敢に長崎行き
を希望した。
大阪から船20日間かかって長崎に到着した。その道中、絶えず刺客が右近をねらっ
ていた。家康は穏健な政策を取り、血を流すことを望まなかった。世間を刺激する
ことと徳川に対する反発を恐れたためである。
大坂方はキリシタンを味方に付けようとした。秀頼からの使者も右近のもとにきた。
右近が秀頼につけば結果は変わっていただろうと家康自身思っていた、と言われてい
る。そえゆえ家康はなんとか右近を追放したいと考えていたのである。
9/24急遽国外追放の命令が出た。ジャンク船(注)が駆り集められ、10/6、7で分
乗してマニラ、マカオへ送られた。10/1に大坂征伐の命を発していることから、
その前に追放しておきたかったのであろう。しかしそれでも安心できなかったのか、
家康は考えを変え、右近の船を撃沈しようとしたが、そのときはすでに船は遠く沖に
出ていた。
右近は10/7長崎を出た。小さな船に100名以上が乗船し、通路や甲板にごろ寝
の状態であった。老朽船で絶えず水を掻き出さねばならなかった。海賊や暴風に会い
ながらの長い過酷な船旅で4人の死者がでた。右近らは祈りと読書と霊的談話で過ご
した。
フィリピン側記録では12月21日陰暦で11月21日、43日後に船はマニラに到
着した。ルソン総督を始め全マニラは偉大な信仰の勇者を歓迎。船が入港したとき岸
は市民が埋め尽くし、礼砲を撃ち、国賓並みの歓迎であった。
(注)ジャンク船
1000年以上前に中国で開発されたのが平たい船底を持った「ジャンク」と呼ばれる船で、東アジアの海を交易と戦争の両方の目的で航海するためにつくられた頑丈な船でした。現在も利用される基本的な海事技術の発明の多くは中国人によるもので、ジャンク船は、西洋より何世紀も前に舵(舵とり用オールより本格的なもの)や当て木のついた帆、水密区画室を備えていました。また平たい船底は水をかきわけるのに適しています。さらに竹で補強された帆は平らな形をたもつことができ、強風のときは帆の一部を簡単に折りたたむこともできるものでした。

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