本能寺の変。秀吉の側近たちがキリシタンに。



◆本能寺の変

天正10年(1582)右近が毛利戦に合流するため高松へ進軍中の6月2日本能寺 の変が起こる。パアデレ、セミナリオの学生は沖の島へ避難した。
明智光秀は、諸侯も味方してくれるという甘い判断のもと何も手を打たなかった。 右近も味方してくれると思い、本領を安堵するという書簡を送ったのみだった。 右近は引き返し、良心に従って謀反人と戦った。右近は先陣を切り、明智軍一万五千 に対して、二千の兵で打ち破った。
しかし、光秀の娘「たま」は細川忠興の妻であり、後に洗礼を受けることから、右近 とも親しい間柄であったと思われる。その心境はやはり複雑だったであろう。

このとき信長に押さえられていた悪人が各地で略奪を起こした。しかし高槻だけは平 穏であったという。

この戦で安土城は焼失。安土のセミナリヨを高槻に移した。
信長の法要では右近は信仰に従い焼香しなかったが、何事もなかった。秀吉に殺され てもおかしくない無礼である。この経験でますます信仰を強くしたらしい。

信長の死によりダリヨは高槻に帰ることを赦された。後に柴田勝家は秀吉に破れ自害 した。

◆秀吉側近たちと右近

右近の功績により、秀吉はキリシタン保護を継続した。しかし右近は秀吉の性格を見 抜いていた。大坂城が建てられるころ「大阪に積極的に屋敷を建てないような者は 秀吉の寵にあずかれぬ。」とパアデレに進言した。
天正11年、秀吉はオルガンチノを歓待、大阪に教会用の土地を提供を願い、与えら れる。右近も自費で大坂に教会を建設した。
天正13年には3000名の受洗、60人あまりの仏僧が改宗するなど宣教は拡大し ていった。

秀吉の側近の多くが右近の影響で入信した。
馬廻り牧村政治は4人の妻を持っていたが1人に改め、驚くほど純潔な生活に変わっ た。その他、
  
近江日野城主蒲生氏郷(がもううじさと)
  
秀吉顧問 黒田官兵衛孝高(よしたか)
    
(彼は最も多くの武士を導いた。)
  
宇喜多氏、中川秀政、市橋兵吉、瀬田佐馬之丞
などがいる。
受洗には至らなかったが、細川忠興、前田利家、織田有楽斎など好意を持つものも多 かった。細川忠興の妻ガラシャは、侍女清原マリヤ(ダリヨと共に入信した清原枝賢 の娘)や右近の導きで入信した。
小西行長の一家はザビエルに導かれた古いキリシタンの家系であり、行長も幼児洗礼 を受けアグスチノと命名されていたが自覚的信仰は無かった。父隆佐は秀吉側近。母 マダレイナは北政所に仕えていた。行長は右近邸でのロレンソの説教をきき、右近と 交わりを持つに従い、信仰が目覚めた。傲慢な男が謙遜、柔和な人になった。

信長に謀反を起こした荒木村重は、低い地位で秀吉に仕えていたが発言力はあった。 茶席で秀吉が右近を誉めたとき、荒木は「それはみせかけだ。」というと秀吉は怒り 、荒木はそれ以来信用を失ったという。

また側近の施薬院全宗(せやくいんぜんそう)は反キリシタンであり「右近らが一味 徒党を結び陰謀を図っている」と秀吉に言うぞ、と脅かした。右近は「堂々と弁証し よう。それでも禄、命を奪うならそれに従おう。」と退かなかった。
秀吉の右近への信頼は絶対的であり、毎日のように右近を賛辞し、多くのキリシタン を登用した。

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