「おたわジュリア」


 秀吉の朝鮮出兵時に残虐な行為をしたとして、キリシタン大名小西行長は、
今でも韓国では、鬼か悪魔のように扱われているようです。しかし、史実は
この無謀な戦争をなんとか終わらせようと明との和平交渉を行ったのが行長
でした。
 今回は、その小西行長が幼女として引き取って育てた朝鮮人女性について
ご紹介します。

★★★ 「おたわジュリア」 ★★★

 秀吉が朝鮮に出兵したとき、ピョンヤンのある城主(?)が戦死し、その妻
も自害して、6歳の娘が残された。キリシタン大名小西行長は憐れに思い、そ
の子を日本に連れ帰り娘として育てた。その子の日本名はおたわ、洗礼名はジ
ュリアと言った。行長の妻は薬草に詳しく、おたわにも教えた。

 あるとき将軍家康の前で踊りを踊ってみせた。家康はおたわを気に入り、側
室として召した。しかしキリシタンであったおたわはそれを断った。当時大奥
の女たちの誰もが欲しがった側室の地位をおたわは信仰の故に拒否した。

 小娘にばかにされた家康はおたわを大島に島流しにした。そこで苦しい目に
会えば心変わりすると思った。しかしおたわは、そのような状況でも愚痴ひと
つこぼさず、むしろ自分の薬草の知識を生かして、島民に尽くした。島の役人
は、いつかは側室になるかもしれないと思って、おたわには丁寧に対応した。
そのためにキリシタンが増え、さらに八丈島?に流され、そこでもキリシタン
が増え、さらに神津島に流された。

 医者もいない離れ小島で、おたわは人々に仕えた。体が腐っていく病気で、
家族さえも寄り付かない老婆をも献身的に看護した。また海賊で何度も捕まり、
死刑にされる直前の牛五郎を引き取った。回心した牛五郎はおたわに良く仕え
た。ある夜中、海賊時代の経験から津波が来るのを察知した牛五郎は、人々を
起こして回り、高台に避難するように呼びかけた。おかげで人々は助かった。
しかし、最後まで人々の安否を気遣って走り回っていた牛五郎は津波に飲み込
まれて死んだ。

 おたわは神津島で生涯を閉じた。実に40年に及ぶ島流しであった。

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