第7章 自由を求めてアメリカへ

アメリカ合衆国(USA)が、その建国以来キリスト教をバックボーンとしていることは事実です。

カトリック   5900万人 (23%)
プロテスタント 8700万人 (33%)

と、人口の50%以上がキリスト教会に属しています。

プロテスタントの主要教派では、

会衆派           130万人
聖公会(エピスコパル)   250万人 
長老派(プレスビテリアン) 380万人 レーガン元大統領が所属
ルーテル派         800万人
メソジスト系        900万人 ブッシュ大統領、ヒラリーNY州知事が所属
バプテスト系       1200万人
南部バプテスト      1600万人 カーター元、クリントン前大統領が所属

また、

80%(2億人)が、イエスの神性を信じ、
42%(1億人)が、聖書を神のことばと信じ、定期的に教会へ行き
15%(4000万人)が、毎週礼拝に出席している。

という報告もあります。

その始まりは欧州の教会から迫害され、信仰の自由を求めてやってきた所謂「異端者」でした。しかし彼らが困難に耐えながら携えて来た「天の国の鍵」は、米国ばかりか世界中で「天の国への扉」を開いてきたのです。

1.メイフラワー号

 英国国教会も抑圧を逃れて、アメリカに自由な共同体を作ろうと、分離派のピューリタン37名は、移住者と共に1620年9月6日メイフラワー号でイングランドのプリマスから出航しました。総乗船員102名でした。
 彼らはオランダに逃れていた分離派でピルグリム(信仰の旅人)と呼ばれ、そのため彼らは「ピルグリム・ファザーズ」と呼ばれました。『プリマス植民地の歴史』(ウィリアム・ブラッドフォード)には、

「オランダの都市生活は快適なものであったが、神の御旨を仰いだ「ピルグリムズ(巡礼者達)」は、天に望みを置き、さらなる魂の安らぎの地を求めてヨーロッパを後にした」

と記されています。

 2ヵ月後の11月11日、彼らは現在のマサチューセッツ州に上陸し、12月にはプリマス入植地を建設しました。上陸に先立って、船内で署名されたメイフラワー誓約は、その後の民主主義の基礎となりました。そして苦難に満ちた入植地での生活の中でプロテスタント信仰は精神的支柱でした。

 ネイティブ・アメリカンの人達に教えられながら、なんとか厳しい冬を越えた人々は、翌年、神に感謝を捧げる祭りを始めました。これが今日の感謝祭の始まりです。

 その後、いくつもグループが移住しました。1630年には、ジョン・ウィンスロップと彼に従うピューリタン900人が、ピルグリムの入植地から遠くないマサチューセッツ湾に到着しました。ほぼ同じ時にカペナンターは、ジョン・エンディコットのリーダーシップのもと英国から到着し、マサチューセッツ湾を横切ってボストンの北のセーラムに定住しました。彼らは指導を求めるためにプリマスの分離主義者教会へ手紙を送りました。プリマスの教会は、セーラム教会に交わりの手を差し述べました。地方教会間の相互契約という会衆派の原理は、既にニューイングランドで定着していました。

 こうして、マサチューセッツに多くのピューリタンが定住しました。

2.会衆派

 プリマス入植地の分離派は、英国国教会からの分離を主張する人々で、アメリカの独立革命のとき、イングランドからの分離をいちはやく勇敢に敢行した父祖として崇められています。

 一方、マサチューセッツ入植地は非分離派と呼ばれ、国教会内で改革を目指す人々でした。
1633年、イングランドの会衆派に大きな影響を与えた牧師ジョン・コットンが加わり、教会を指導しました。教会と政治が一体化した政策(ニュー.イングランド・ウエイと呼ばれる。)が実行されていました。ここでは教会員イコール共同体の構成員であり、彼らだけが投票権を持つことができました。大多数の移民はは政治的社会的経済的理由で来たので、様々な権利を得るためには教会員になる必要がありました。牧師の推薦だけで教会員になれた時期もあったようですが、基本的には明確な回心体験の証言が求められました。
 親が明確な信仰告白をしている教会員であれば、その子どもも聖餐式以外の権利を有することになっていましたが、第2世代になった時、教会員でない親の子どもをどうするかという問題が生じました。そこで1662年、親が教会員でなくても祖父母が教会員であれば子供に洗礼を許す、というHalf-Way Covenantを採択しました。これによって契約した男性は成長すれば投票権があるが、聖餐式には参加できず、牧師の投票権は無い、というもので、フルメンバーになるには、明確な信仰告白と牧師の証明が必要とされました。これは大きな議論を巻き起こし、教会と政治の分離を要求する人々は、別の入植地を作っていきました。


 ピューリタンの生活の中心は、毎日曜日に行われる礼拝であり、説教は平易な聖書の解説と適用で、特に実生活にどう適用していくかが重視されました。

 1957年成立した、UCC(the United Church of Christ)は、この会衆派の流れと、ドイツ系改革派や、アメリカで独自に形成されたThe Christian Churchが合同したものです。


3.長老派

 同じころ長老派の移民も東海岸に定住し、早くも1630年代に長老教会(congregations)を設立しました。イングランドの教会制度強要に抵抗しアイルランドへ追放された長老派の人々も1683年、アイルランドから移住しました。1706年には、8人の長老教会の牧師がペンシルバニア州フィラデルフィアで会合し、フィラデルフィアで最初のプレスビテリアンの長老会(presbytery)を形成しました。
人口増加と移住によって、長老会は、1716年にフィラデルフィアの教会会議を組織しました。教会は教育、宣教、そして慈善事業の固有のリーダーシップを身に付け始めました。
後にプリンストン大学となる教育機関も作りました。

1789年には初の総会を開きPCUSA(Presbyterian Church in the USA,南部長老派とも呼ばれる)を設立しました。そこで教会政治の形態、礼拝の規則、ウェストミンスター告白への同意、大教理および小教理を含んだ憲法を採用しました。

 一方、名誉革命後の非国教会容認後にイングランドで設立された長老派からは、1753年に最初にペンシルバニアへ宣教師が派遣され、分離派とカペナンターが1858年に合同し、UPCNA(United Presbyterian Church of North America,北部長老派とも呼ばれる)を形成しました。

 その後、幾度もの分裂、合同を繰り返しますが、1983年には、これら2つの流れが合同してPC(USA)(the Presbyterian Church (U.S.A.))となっています。現在340万人の会員となっています。

 一方でPC(USA)から離脱した、より保守的な教会が集まって、PCA(Presbyterian Church of America)を形成しています。(会員数30万人)

 日本での初期プロテスタント宣教師のヘボンは、この長老派の宣教師でした。

4.改革派

 1624年オランダは、ニューアムステルダムに入植しました。1664年第二次英蘭戦争でイングランド領になるまでオランダ改革派教会(The Dutch Reformed Church)が公定教会でした。その年にニューアムステルダムは、ニューヨークと改名されました。
 1764年までオランダ語で礼拝し、英語で礼拝することはありませんでした。アメリカ独立と共に母国の教会から独立しました。1867年RCA(the Reformed Church in America)となり現在に至っています。
 人口5万人ほどのミシガン州(ニューヨーク州の西)ホランド(Holland)という町は今もオランダ文化を継承していて、オランダ改革派教会が過半数を占め、住民の80%以上は、日曜日に教会の礼拝に行くそうです。

 イングランドに植民地を奪われて公定教会でなくなったのち、オランダ改革派は宣教に熱心になったと言います。やがてリバイバルを経験して世界に宣教師を派遣していきました。日本での初期プロテスタント宣教を担ったバラブラウンは、このオランダ改革派の宣教師でした。

 長老派やオランダ改革派はカルヴァンの思想をより忠実に継承した教会でした。こうして東部沿岸植民地は、カルヴァン主義の影響を受けたプロテスタントに占められることになったのです。


 ドイツから戦争による荒廃を避けて多くの移民がペンシルバニアおよび中部大西洋地域(NewYorkからバージニアまで)に流れ込みました。フィラデルフィアを建設したクエーカーウイリアム・ペンの招きによって、ペンシルバニアには大量のドイツ人が移民したと言われています。彼らは牧師を伴っていなかったので、最初は家庭で礼拝を持っていました。彼らは霊的、経済的にホランドのオランダ改革派の援助を受けていましたが、1747年に組織化されました。このドイツ改革派は後に会衆派と合同し、UCC(the United Church of Christ)を形成しています。

5.ルター派

 最初のルター派移民は、1620年代にハドソン河流域(ニューヨーク、ニュージャージー、デラウェア)に定住しました。ルター派は欧州プロテスタントの主流ですから、迫害を受けて新大陸に移住する必要はありませんでした。しかし、18世紀には、敬虔主義の影響を受けたグループが移住し、19世紀のスカンジナビア、ドイツからの大量移民(貧困対策としての移民奨励や、ドイツのルター派とカルヴァン派の合同に反対する人々など)によって、ルーテル教会は急成長しました。
 現在500万の会員を抱えるELCA(The Evangelical Lutheran Church in America)と、260万の会員数で、より保守的なLCMS(The Lutheran Church--Missouri Synod)が2大教派となっています。

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 さて、ここまででアメリカ建国時の主流教派の概要を見ましたが、次章以降で、少数派や奴隷問題、リバイバル(信仰復興)、そして少数派から最大教派に成長したバプテストについて見てみたいと思います。



開拓当時の各教派の主な入植地

「メイフラワー誓約」(The Mayflower Compact)

神の名において、アーメン。我々下記に名を記す者は、神の恵みによってグレート・ブリテン、フランス、アイルランドの王、かつまた信仰の擁護者なる、畏れ多き君主、ジェームズ王の忠実なる家臣であり、神の栄光のため、またキリスト教信仰の発展と、わが王ならびにわが国の名誉のため、ヴァジニア北部に最初の植民地を築こうと航海に乗りだしたが、ここに、神の御前において、この書類によって厳粛にお互いどうし相互に契約を交わし、自分たちのよき秩序と先に述べた目標を堅持し促進するために、みずからを政治的な市民団体に結合することにした。そして、それにより、時に応じて植民地の公の利益のためにもっともふさわしく便利だとおもわれる正しく公平な法、命令、規則、憲法や役職を作り、それらにたいしてわれわれは当然の服従と従順を約束する。このことの証しのために、アイルランドを納めること18年目、スコットランド54年目の、グレート・ブリテン、フランスの種なるジェームズ王の治世の11月11日に、ケープゴットにてわれわれの名を以下に記す。1620年。   



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