第2章 「天の国の鍵」を独占するローマ法王

2.1 邪教から国家宗教への大逆転!

 1世紀から2世紀にかけて、キリスト教は激しい迫害を何度も受けました。
 ローマの大火の原因とされて、大勢十字架にかけられて焼き殺されたり、円形劇場(コロシアム)でライオンに食われたり。でも、こんな迫害にもめげずにクリスチャンは増え続け、侮れない勢力になっていったのです。特に皇帝を神として礼拝しないことが、皇帝の怒りを引き起こしたのです。しかし、312年にコンタンチヌスはローマに進攻してからキリスト教保護を行い、翌313年ミラノ寛容令を発布し、キリスト教は公認されました。続く皇帝も同様の政策を維持したばかりか、キリスト教以外の神の礼拝を禁止し、392年にはテオドシウス帝の勅令により国家の宗教にまでなったのです! これはある意味では喜ぶべきことでした。しかし、これがやがて教会と公権力との一体化を生み出したのです。

2.2 「鍵」を握ったローマ教皇

 70年、ローマ軍によってエルサレムが崩壊し、ユダヤ人がエルサレムから追放されると、キリスト教の中心はローマに移りました。 初期の教会には、組織も階級もありませんでした。ただリーダーとしての監督や長老、奉仕のための執事などが存在していました。 やがて司教制度が形成されてくると、信者と司教、司祭とが区別され、信者と神との間に「教会」=司祭、司教が立つようになってきました。そして3世紀から4世紀にかけてローマの司教が支配権を確立し、その頂点に君臨したのです。

 最初に「教皇」として全教会を支配下においたのは、レオ一世(440-461)でした。 それは第1章で述べたように、「天の国の鍵」を授かったペテロがローマ教会最初の司教であり、ローマ司教はペテロの唯一の後継者だと主張したからです。ローマ教会(聖ペテロ大聖堂)はペテロの墓の上に建ち、それが現在のバチカン、ローマ教皇庁となっています。教皇(=法王)は今でも、天国と地獄と地下を支配する象徴としての三重冠と、天国の鍵を組み合わせたものを紋章とし、漁夫の指輪をはめています。今日でも、法王が教会に入場してくる時、聖歌隊はおまえはペテロ、この岩の上にわたしの教会を......と歌うそうです。 教会は、信徒が天の国に入る上で通過しなければならない7つの「関所」−洗礼や聖体、告解などの「七つ の秘蹟(サクラメント)」を設けました。教会によってこれらの儀式を授けてもらわねばならないのです。 こうして、教会を通してしか「天の国」に入る道が無くなったのです!もちろん、ここで言う「教会」とは、聖書的な概念としての教会ではなく、ローマ教皇を頂点とした組織としてのカトリック教会です。 ローマ帝国は分裂し、西ローマ帝国は476年に滅亡しましたが、ローマ教会はその組織を強固にし、教皇の権威は益々強くなっていきました。そしてその権威は王権の上に立つようになり、12世紀に絶頂期を迎え、「教皇無謬説」(教皇はキリストの代理人であり誤りが無い。)まで主張するようになります。

 

左:ペテロの墓の上に建つサン・ピエトロ寺院

右:鍵の紋章のバチカン国旗

 

 

 

 

 


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