聖書と英語 Bible and English 

GODと「神」について

翻訳の専門家ではないが、翻訳というのは難しいらしい。特に今日のように文化的交流が無い時代に、まったく文化の違う言葉に翻訳することは相当の苦労が必要だ。このような異文化間の翻訳で最も歴史が古いのは聖書だろう。かつて誰も行ったことのない、ことばも全くわからない国へ宣教師たちは出かけていき、ことばを学びながら、聖書を翻訳して、キリスト教を伝えていった。

 今日でもウイクリフ聖書翻訳協会などが、あらゆる民族のことばに聖書を翻訳するため、同じような苦労を味わっているに違いない。

 この辺りの事情を知る上でとても参考になるのが、”「ゴッド」は神か上帝か”(柳父 章著:岩波現代文庫)である。以下、その内容を掻い摘んで紹介しよう。

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 聖書を最初に中国語に翻訳したのは、イギリス人のロバート・モリソンという宣教師であった。彼は中国(当時清国)の広州を中心に活動し、聖書翻訳と英華辞典の作成を手がけた。

 モリソンは1819年に中国語聖書「神天聖書」の翻訳を完了し、1823年にマカオで出版した。アヘン戦争後、清国への宣教のチャンスが拡大し、聖書の改訳の必要性から1847年、上海にイギリス、アメリカの宣教師が集まって、改訳委員会が開かれた。(このときすでにモリソンは他界していた。)

 このとき、英語の「God」の訳語をめぐって2つの意見が対立した。(ここで英語の「God」は、聖書の神の訳語として正しいということが前提にある。)

 モリソン訳「神天聖書」は、「God」を中国語の「神(shin)」と訳していた。改訳するにあたって、委員長メドハーストを初めとするイギリス人宣教師は、「上帝(shan te)」を主張し、アメリカ人宣教師ブリッジマンはモリソンと同じ「神」を主張した。結局議論はかみ合わず、GodとSpritの部分を空白にした草稿を作ったのち、2つの中国語聖書を別々に発行することになった。

 「上帝」派の主張

「神」の第一の意味は、たましいであって、唯一の至高な存在を意味しないので、不適当である。

「上帝」は中国の書物の中で常に至高の存在を意味している。

 「神」派の主張

「上帝」は、政治的、現世的指導者の意味であり、不適当である。

「God」にふさわしい言葉は、もともと中国語には無い。

 「神」派=ブリッジマンの2つ目の主張が重要である。つまり、中国人にはもともとキリスト教の神の概念は無いのだから、それに相当する言葉も無い。「聖書の神」の概念は所詮、コンテキスト(文脈)の中で理解していくしかない、という理屈であり、モリソンもこの考え方であった。翻訳者の姿勢として謙虚な姿勢である。しかし「神」という訳語が、やはり不適切であるという事実に変わりはない。

 日本に最初に持ち込まれた中国語聖書は、ブリッジマンの訳であった。日本語にも「神」という言葉があり、同じ漢字を使う民族であったため、彼らは何の疑問も持たなかった。そして、最初の日本語訳聖書(明治訳)を作るときも、中国語聖書をお手本とし、無批判に「神」という訳語が使われて今日に至っている。しかし、日本で古来使われてきた「神」という言葉は、中国語の「神」ともまた異なり、2重のずれが生じている。

 以上が、”「ゴッド」は神か上帝か”(柳父 章著:岩波現代文庫)の要約である。

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 日本におけるGodの訳語については、明治以前のカトリックの初期宣教時と明治以降で変化が見られる。

 フランシスコ・ザビエルが最初に日本で伝道したとき、日本人にわかりやすいようにと、「聖書の神」を「大日」と呼んだ。しかしまもなくザビエルは、このことばが仏を意味する言葉で誤解を招くことに気づき、「ぜうす」と自分たちの発音どおりに変更した。したがって明治以前のキリシタン達は皆「ぜうす」と呼び、決して「神」とは言わなかった。「大日」も「神」も、「天地創造の神」を表すことばとしてはふさわしくないと判断されたのである。

 しかしプロテスタントの宣教師が中国語聖書を持ち込み、それをお手本に日本語聖書を翻訳するようになると、無批判に「神」が訳語となった。カトリックでは、幕末以降に「天主」ということばが使われていたが、これは中国でも「上帝」と並んで使われた訳語であり、これも本来仏教用語である。

 明治初期の英日辞典では、Godの訳語は、「上帝、天主、神」、という順になっているが、やがて、「神」のみが訳語となった。

 「神」ではなく、もっとふさわしいことばを使っていれば、日本のキリスト教はもっと普及したであろうと言われる。宗教社会学者の鹿嶋春平太氏(著書:「神とゴッドはどう違うか」など。)は、日本人が「神」と呼んでいる限り、正しい「聖書の神」の理解はできない、と主張し、「創主(つくりぬし)」と呼ぶことを推奨している。

 ただ、私の感覚では昔と今とで「神」という日本語の意味が変わってきていると思う。私は昭和二桁生まれだが、「神」と言えば、やはりキリスト教の神、天地創造の人格を持った神を連想する。日本古来の神道の「神」のような具体性の無い「神」のイメージは無いに等しい。それは私がすでにキリスト教徒で聖書を読んでいるからかもしれないが、すくなくともコンテキストによってキリスト教の「神」概念が理解できたことは事実だろう。

 言葉は時代と共に変わっている。現代においては、聖書の訳語は「神」で問題ないくらいキリスト教の神イメージは定着しているのではないだろうか。特に日本人は西洋文化をすんなりと受け入れてきたし、キリスト教徒でも無いのにクリスマスをお祝いし、教会で結婚式をするのだから、特別かもしれないが。

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 ここでは「神」の訳語を取り上げたが、その他のことばについても、翻訳というのは非常に難しいものだ。だから、聖書を読むときには、ひとつの日本語訳だけでなく、いくつかの訳を比較することをお勧めする。また英語聖書もいろんな訳が出ている。これらを読み比べることで、聖書のことばの意味が立体的に浮かんでくることを私自身しばしば体験している。

(Luke)